博多工高。大阪工大。お世話になった方。ヨーロッパ。の皆皆様

私が26~28歳当時、福間の大きな精神病院長宅、九大精神科安河内先生(国際政治の問題でノーベル賞を貰えなかった)宅の設計をした当時二人の先生からボケない様にする為には、昔のことを思い出し、自筆で文章にすることが一番(ここで自筆は難儀なのでワープロで)と教わりました、その意味もあって数年前「子供の頃はボンクラでもよか」出版しました。今これらの過去を簡単に纏めてみました.

 子供の頃は何時もボーとしていて、気が弱く、寝小便は何時もするし、学校では勉強はしないし、先生からは何時も虐められていました、でも遊ぶことだけは好きでした。

 小学生時代は本当にボンクラでした、4年生まで(5年からは大東亜戦争)は学芸会に出た事もないし、その練習さえ見せて貰えなかった。トイレにも行かせないのでとうとうウンチをしたままで帰宅した事もありました、辛かった(なぜか先生から虐められた)。

 第二工業学校(現の博工)に入ると工場への動員中B29で学校焼失、戦後は奈良屋・東光と小学校を転々と仮校舎、その後は糸島の海軍兵舎を解体、平和台横の練兵場後に移転が完成するため、3年ばかりの建設作業(市の予算不足で先生と生徒と数人の大工と)。卒業後は直方ろう学校の工作助教諭、近くの筑豊高校定時制の4年生に聴講生、当校ではじめて本当の勉強をした。

大阪工業大学の建築工学科に一度は失敗しましたが、5日遅れて補欠入学、この学校では素晴らしい先生方に出会い、専門とする構造計算の基礎を確り学びました。当時は朝鮮動乱も終わり、超超就職難の時代でしたが柔道をしていたお陰で県教員採用テストの26倍の難関をパスしました(戦後GHQから柔剣道は禁止されていました、その解禁は講和になってからです、それでも特に柔道をする(柔道は防具なし故希望する学生はあまりいない)学生で教育免許を持つ者は皆無でした)。

福間精神病院長にお願いし、「公務員特例法」での許可を当時の市長から直接貰い建築物の構造計算を多数することができました。私にとってはこの構造計算にはいろんな骨組みがあって、そのものが構造の研究(当時はすべて手計算の時代)の連続でした。

私が29歳当時、九州大学で内地留学した時、市の教育長に提出する為に 生徒の助もあって 福岡市の地盤構造図「日本最初の都市地盤構造図」 を完成し提出することができました、(私のブログを見て下さい、本当に、九大教授はズル賢い者が何人もいる。

小生只今88歳、数年前仕事も完全に辞めました、毎日沢山の薬・サプリメントを服用、夜は何回もトイレ、時々入院もします、近頃よく咳もします(もし新型コロナに掛かったら間違いなくあの世)、眼も悪くなりました。先日恒例のMRIを受診、医者曰く“若干脳が小さくなりました ”頭にきた“ これ以上脳が小さくならないよう工大の2回生でやっと取得した青井先生の微分積分を再度紐も解いています。小生、青井先生にはいろいろと思い出があります。

1回生の時熱学の単位をもらいました(この教室での機械以外の学生は私一人)熱学以外では 光学・地質は他の工学科で取りました、これらはその後、設備・管工事・土木等の資格と、亦教えるとき大変役にはたちました、なにが役にたつかわかりませんね。 

こんな事もありました。2回生の2月、4回生で柔道部主将の土木の Mさんが夜中、私の下宿に泊まりにきました、聞くとどうしても微分積分が取れないので試験の前夜事務室に忍びこみ(本当だろうか)問題を盗み、答えを聞きに川原先生(湯川博士の後輩で物理の先生、柔道部長)に答えを習いに行ったそうです。答案を見た青井先生がこの答案はあまりにも出来すぎている、この答案が出来るなら1回生で単位を取っているとかで不認定にされています、Mさんは怒って就職も決まっているし卒業出来なかったら相打ちをすると言っていました。結局川原先生が中に立ち収まった様です。(Mさんは寝屋川市の職員でしたが50代の半ば糖尿病で亡くなりました)。川原先生、青井先生は後、大工大の学長。川原先生は柔道場の名札の最初に最高顧問として名札があります。 

  • 卒業式の2日まえ柔道部員3人と川原先生の自宅にお礼に行きました、すき焼をご馳走になりました、その時こんな事を話されました。当時アメリかの原爆使用が世界での非難にあがったので、アメリカが日本人に放射能の研究者にノーベル賞をやり、非難を薄めたいので誰かを推薦せよと物理学会に相談があったそうです。そこで勿論第一任者の朝永博士を推薦したところ、彼はやや赤の思想があるので、ダメ と返事がきた故 湯川博士になったと話されていました。朝永先生は2回目のノーベル賞受賞者です。川原先生は湯川さんは 「運」 がよかったと言っていました。 
  • 私が38歳の時の福岡県OB会に川原先生が福岡市に来られました、この日先生に私宅に泊まって頂きました、この年に ル・コルビゼの設計思想で 「穂高建築研究所」 を設けました。(川原先生は私が2回生の時、理学博士を取られましたが、俺が知らんうちに工学博士が来たと言ってありました)。 
  • 私の所属する山の会“山荘会”で27歳の時 “穂高岳“ に登はんした時、隊長から山頂の少し前には必ず休憩し、今来た道を顧みながら感謝して山頂に臨みなさいとの教えから穂高建築研究所の名称を付けました。故これを守ったからと思う今までの仕事に大きな失敗はなかった。

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  • 私も88歳になりました、これから少し自慢して悪いと思いますが許して下さい。60歳の定年まで、全国の高校の教師の中で一番、専門での研究と仕事(アルバイト)したのは私と思います、小中大の建物で構造計算(当時は全て手計算で)した建造物は600近くになりました、(代表的な建物に長崎造船所、ブリジストンのタイャ倉庫、筑紫野市の農業者体育館)ほか色々あり。構造計算はそれ自体が色んな骨組みありで研究です。(お陰でカーチャンと随分海外で建造物を観ることができました)。
  • でも学校が終わり柔道もし、夏冬の休暇以外は、帰宅後殆ど毎日夜の2時までは構造計算でした、また日曜日(80%)は札幌から沖縄までの色んなヶ所での資格指導と専門の講義。「ツカレマシタ」。
  • 今はカーチャンから、年金の中から少しの小使いを貰っています、カーチャンに感謝。 
  • 機会が有りましたら「子供の頃はボンクラでもよか」を周囲の方に薦めて下さい。(悩んである子供さんをお持ちの方に)。 この他の出版本に「先生、もっと子供を叱れ」「家庭の安定には家の設計思想にある」
  •       博多工高時代素晴らしい先生に出会いました工高生(小生、S25当校木材工芸科卒)時代の一時期、「小野木先生」(東京芸大卒)が担任でした。B29で博多駅から築港まで広く焼け野原でしたが、呉服町の焼け残ったすぐ横に「松竹映画劇場」がありました、戦後しばらくしてその劇場の「全ての椅子」を先生が設計し直されました。 その後中洲の映画館(名前を忘れた)のインテリアを全て設計。
  • 幸い小生当校の教師になりましたが、いつも小野木先生の様になりたいと強い願望をもっていました。技術を持つ先生にお願いします、生徒だけを相手していては勿体ないです、広く世間を見て技術を活用してください 、私のブログ(先生の仕事はもっとある)を参照してください。                        
  • 「また暫くして、中洲に新築なった〇〇劇場(名前を忘れた)のインテリア全てを設計されました。先生でデザイナーの先生を皆が尊敬していると同時に憧れていました、先生はその後東京に行かれました。」
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  • ●これ等は私が勝手に書いたものですから、手間のかかるような感想文とか返事とかは一切送らないで下さい。

この頃は暇なのでボケないように昔を思い出し簡単に纏めてみました、私を皆が “アウトロウー“(公務員で何で仕事が)と呼びます。でもチャンと特例法の許可を貰って構造計算や県外での講義を沢山してきました。(許可を貰うのに、若い時良いチャンスがありました。邸宅を設計した精神病院長と、当時の市長があることで親密な関係にあったので院長にお願いし、直接市長から許可を貰うことができました)。

  • カーチャンが2年程前滑って腕を骨折しました、一年で完治しましたが慣例で2年ばかり食事を作っています、食事の後かたずけは7年になります。山では何時も料理を作っていましたが、家庭での食事は難しいです、でも面白いです。
  •  新型コロナに感染しないようにしましょう、高齢になりますと死亡率が高いのでお互い注意して行きましょう、小生88になり何時死んでもよいと思っていますが、出来ればもう少し生きようかとも思っています。                           f:id:susumu7286:20200628141918j:plain      f:id:susumu7286:20200628141930j:plain
  •  ル.コルビゼェの設計思想で38歳の時   この本の主旨は42ページのグラフで                      す。この他に「先生、もっと子供を叱れ」、「家庭の不和は家の設計思想にある」がある。     

  • ハテナブログ「北島進 穂高建築研究所」の九州大学の土木・建築の教授はズル賢い者が多い」 をクリックして下さい、面白いです。
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せきべのうた昔の教育の一部

 


脳科学者、心理学者の言によれば、若い頃を思い出し自筆で文章にするとことがボケ防止に最良だそうです、自筆は難儀なのでワープロにしました。

 小学1~4年までは女の担任でこの先生から何時も怒られた、私は病弱で体も小さくボンクラでしたから先生から怒られるのも当然でしょう、どの様にボンクラだったかを1,2挙げます、今の教育では考えられない。

1 私は学芸会に出たことも皆の練習を見たこともありません、練習の時は先生から差別されている者5人(頭に一杯出来物のあるY君・貧乏で洋服のちんちくりんのT君・何時も水鼻を出していて袖で拭いて光っているA君・体の大きく強い韓国人のk君・何となくボーとしている私)は何時も運動場で遊んでいました、寧ろ楽しくそれが苦になることはなかったけど、雨の日だけは何処にも行きようがないので困った、運動場端にあった倉庫の小さな庇に皆でたたずんでいました、足はビショビショです。 

家に帰ると食事の時、親父が今年は出してもらえるかと尋ねます、出ないと答えると“勉強もせん、先生の言うことも聴かない、そんな生徒を好くわけがない”明日先生に「教科書の1ページでも読ましてください」とたのめ。 

お袋は近くのB君は何時も学芸会に出してもらっているとか、C君は今年は主役で出るとか言います、ご飯の味なんかありません、泣き泣きいつも食事をしていました。

兄弟も姉3人もみんな優秀で、2年下の弟は毎年級長か副級長で、この年は白虎隊の隊長として出演し最後に自決するそうです。この日母は楽しく朝早くから着物を着こなし、鏡の前で立ったり座ったりしていました。親に苦労をかけたこの嫌な学芸会も戦争のため5年から中止になりました、よかった。 

2  私の出来るのは工作だけでした、模型飛行機はクラスで一番上手で6年生の時は私の4発で翼の長さ35センチぐらいの飛行艇が工作室のガラス戸棚に最後まで飾ってありました。親父はよく進は勉強は出来んけど将来大工にはなれると呟いていました、でも大工は頭が要るけんね。

 毎朝目が覚めると、布団を見て寝小便してなかったらホットしていました、夏は寝苦しいからゴザで寝ていましたからその心配はありません(精神科の先生によると寝小便をする子は将来用心深く、成長しても無理な事はしないそうです、だからでしょう高校生になって米軍から柔道剣道が禁止されていましたが、道場で・空手柔道をする気になったのかもしれません。)

 寝小便をしたり、ノロマ故モタモタするとよくお袋が「バカ」とおごります、親父はその時「バカ」と言ったらいかんと注意していました、「バカ」と言ったら本当にバカになると注意していました、進は病気だから怒ったらいかん。 

 恥ずかしい事ですが3年生の冬、授業時間に便所に行きたくなりました、病弱故時々熱がでて下痢するんです、先生にお願いするとやかましく「我慢しなさい」と怒られました、宿題をしなかったからと思います、とうとう我慢が出来ず“ウンチ“をしてしまいまし た、そのまま帰れといわれ寒い風に煽られ田圃の2キロ程の道を歩いて泣き泣きかえりました、家に着くとお袋が井戸水で洗ってくれましたがその冷たいこと今でも忘れられません。 

小学1年の初め頃、軍艦・飛行機・学校等の絵があります、その下にカタカナで書く問題が出ましたので私が漢字で軍艦・飛行機・学校等と書きましたら、先生が頭をパチンと叩き“そんな字で書かんでよか”。それも原因かもしれません勉強がとても嫌いになりました、小さい時兄や姉がよく漢字を教えてくれていました。私の小学校は生徒が多く(クラスの生徒50名*6クラス*6年生まで=1800名)この全生徒の前で泣きました。書道の時間、墨をすっていました、ヒョット後ろを見たら韓国人のk君が墨のついた筆で顔に塗りました、私も反作用でk君に塗りましたその繰り返しで2人とも顔が真っ黒くなりました、先生が怒って2人とも運動場に面した講堂横に4時間ほど立たされた、休みの時間は毎回2000人近くの生徒が移り替わり泣いている私達を見に来ます。この中で今でも記憶するものがあります、大きな女の子が私に指をさし”この人涙を一杯出し顔を拭いてるとよ“。

 或る日農業の時間、直径2センチの赤・黄・青・緑など沢山の花が咲く盆栽がありますあまり奇麗なので“栄養をやろう”と言って皆の前で小便をかけました(当時の肥料は人か動物の糞です)。それを見ていた可愛いい女の木下さんが先生に言ったそうです。教室に入るなり先生から頬を思い切り叩かれました。 

 4年までの当時勉強した覚えがない、親父もお袋も佐賀弁で“勉強せんば”と何時も喧しく言いますけど何時もするのは小刀で何か作っていました、グライダーを作るときは竹ヒゴを買わないで竹を細く割り丸く削って作りました。当然子供部屋もなし、机も食卓が終わった机だけでしたから、でも姉弟はその机で懸命にしていました。 

  4年まで男女同じ教室でした、ある日隣の渡辺さんの漢字宿題帳を見てビックリです、一字一字違う漢字が一杯で赤丸が何十にもあります、私のは三角一ッだけです、当然です先生からまた竹の棒で叩かれてはと朝教室に入るや鉛筆をなめなめ2角から5角の一列同じ漢字を書くんですそれも毎週です、本当にボンクラでした。

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 1年から4年まであまり怒られたので私の頭の中は記憶が一杯です、5年生の担任は何時

も面白いことを言っていましたので記憶なし。勉強が面白くなったのは、6年生の担任が剣道2段の先生で、私も早朝剣道の練習に参加する様になってからです、このころから初めて友達に教えるくらい算数が理解できる様になりました、教室でも国語の時間、ある日誰か讀む者はいないかと問われるので私が初めて手を挙げまし、先生がビックリした顔で“読め”といわれました。 

 4年の終業式の時、講堂で校長と4年の担任の先生が教壇に立ってあります、結婚され中国の青島に行かれるそうです、結婚の意味は分かりませんが先生が居なくなることだけは理解できました。教室に来られると女の子は皆泣きます男も半分は泣いています、先生は素晴らしい先生だったようです、私は明日から怒られないのでホットし下ばかり向いていました。 

 卒業少し前担任の先生が何処の学校に進学するかと尋ねられたので、木材で飛行機をつくる市立の第二工業学校(現、博多工高のデザイン科)の木材工業科(校長は来年から木材航空機科になりますと言っていたが終戦に、この頃は学校は空襲で焼け、学徒動員などで毎日が工場だった)にお願いしみごと合格しました、嬉しかった(入学の時、飛行機の構造図面のはいった幾つもの教科書は特に毎日見ていた)。

 家業は小さな甘酒屋(博多甘酒)でしたが、戦前~戦後の食料難の時代、作れば作るほど売れていました、だから忙しかった、手伝いも一杯しました、親父も子供のことで勉強を見る暇も無かったのが当然です。  

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 この女の担任の先生、戦後一度飛行場近くで間違いなく見ました、戦後の混乱の中、よく無事で帰ってこられました、あの先生から差別され虐められたので私は人様を軽蔑したり、差別したことはありません、寧ろこの女の先生で良かったと思っています。

 6年の担任の男子の先生は戦後学校の給料が余りにも低かったので炭鉱に転職されたそうです、炭鉱に行き坑道で働くと給料も良いし、一日確実に5合の米の配給があります(全国から若い者が集まった)、その転職が少し体を壊し26歳ぐらいで亡くなられたと聞いています、残念。                         

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美人は怖い。ズル賢イ 九大教授(実名前入り)。学校建設で勉強のなかった2年半。

工高の先生は専門でのアルバイトが可能(許可は必要)。

出版した本

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[家庭に不和が生ずるのは・・・・この出版本は500冊の殆どを、市内の建築設計事務所やお寺さんにランダムに贈りましたので在庫がありません」

「ボンクラの出版本の内容は、若い頃、福間の精神病院長や、九大の精神科のY先生の自宅を設計した当時、色んな事を教えて頂いた事柄をベースにしています。この内九大のY先生は特に脳科学についてノーベル賞を政治的な理由で貰えなかった先生で有名な先生です」

 

アラカルト、
●工高の同級生立和田実君と大村文男さん(山荘会創設者の一人)が由布岳での偶然の出会いから永瀬隆博さん(従来の山の友)と三人で山荘会に入会しました。私が27歳の頃山荘会に入会して山荘会最初の遠出が日本北アルプスで10名程の参加者でした、隊長は美濃井芳夫(写真の最上)さんです、当時は交通がままならずアルプスの麓に行くまでが大変でした。隊長以外は皆な初めての遠出ですから麓から興味津々で、これが梓川とか、これが河童橋とか美濃井さんの説明に胸が震えたのを覚えています。
たしか穂高岳山頂までの途中のコルで一夜ビバークしました、

いよいよ山頂に近づいた頃です、あと7~8分も登れば山頂という少し平らな処で隊長から小休止の合図がありました、あと少しの処で何故と疑問を感じました、隊長の説明では “山頂の手前では必ず休みなさい、一気に登ってはダメです、これまで随分苦労して此処まできました、これまでの苦労を顧みながら気持ちを落ちつけ、山頂には感謝して山頂に登らなければいけません”、これは我々の人生と同じです との説明でした、なんと素晴らしい指導でしょう、凄い。山頂は眺望も良く、澄み切った空気でした、帰りはたしか穂高の麓あたりから

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松本城までを長い区間タクシーでした。

このグループの中、新貝勲さん(法務教官で写真の最左)は特に山で活躍された方で日本山岳会
において “”1982、K2を登山隊長として登高に成功され、国内でとても有名になられ映画にもなっています、著書も「氷河の暖風」”“ あり。(博多工高でも公演あり)
「K2はとても険しい山だそうです、エベレストは現在まで何千人も登高されたが、K2の登高者は数十人と聞いています」

工高の教師は「特例法」で専門の内容でしたら県知事又は市長の許可を貰って別に仕事が出来ます、30歳の初め頃 “構造計算”での許可を貰って城南区梅林に「穂高建築研究所」を開設しました。この穂高の名称は穂高岳での隊長さんの素晴らしい指導を受けた場所から来ています。お陰でこの研究所では随分仕事も勉強もできました。 一つの仕事の終わり頃は何時も美濃井さんのあの指導を思いだし再度考える事にしました、お陰で失敗は殆どありませんでした。

「60歳まで、手による構造計算した。記憶にのこるものに、
130の始頃、長崎造船所(下中上段の30t。10t、5t走行クレーンを持つ)
2・30の中頃 九州高速自動車道からよく見える“羽犬塚近くのブリジストンの山形7連棟のタイャの倉庫(40頃)。や、
3・50の中頃 筑紫野市諸田の農業者スポーツセンターの西日本初の立体トラスを使った体育館があります。
4外に福岡市地盤構造図(20代の終り頃)がある”これは日本最初の都市地盤構造図です

 ●またお陰で年間の土日の半分以上は札幌から那覇まで構造関係の講義をすることが出来ました(84歳まで)。」


・・今、山荘会はありませんが、この写真の方々は今どうしているでしょう、宜しく伝えて下さい。
(美濃井さん、新貝さん、は逝く、)・・

 


●柔道の指導も大切ですが、部活動には山岳部をつくり顧問を兼任することにしました。34歳の頃でした、生徒8名ほどで久住山頂の真ん中でのことです、元々天候は悪かったが突然猛吹雪に遭いました、風が収まるまで岩陰に隠れ蹲りましたがなかなか強風が納まりません、生徒の一人が寒暖計を見て “マイナス32度です” と呟きました、今までこんな寒気に出会ったことがない私は驚きました、重装備でもない我々です、困った、これから早く脱出しなければと考えていた時、幸いに風の息が少し納まりました、急いで下山したのが幸いし“坊ヶつるのテント”まで辿り着きました、あのときウカウカしていたら全員遭難していたかもしれません、今考えても身震いがします、以後無理な登山は。
●(小生、只今毎日沢山の薬とサプリメントを飲んでいます、よく生きている、もうすぐ死ぬでしょう。                   2018・11・吉日 北島進   

 

 

先生方の活躍の場はもっとある

 

 

●先生方の活躍の場はもっとあります...

 この項目は、「全国工業高校の工業・技術の若い先生に読んで頂く為につくりました」 
 S30年、福岡市立博多工業高校建築科教師(1932/2月生)、卒業生はじめ特に専門の建設業界の方から色んな面で助けて頂きました。この項目の内容は、技術・工業・職業・理科等を選択してある中学・高校の先生の将来の生き方を含めて参考になれば幸いです、なると信じています。
 教師をして4年程でした(それまでは大きな精神病院長宅や個人住宅等を数件設計)、市内の建築設計事務所勤務の卒業生が特殊建築物の構造計算の依頼を持ってきました、”私の紹介する先生はこれぐらいは直ぐ計算出来ます”と言ったので絶対に断らないで下さい、断ると私が恥をかきますとの厳しい条件でした。この事柄は、昨年出版した「子供の頃は”ボンクラ”でもよか」、(出版社は福岡市の海鳥社の34ページを参照にして下さい。
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表紙はゴッホの跳ね橋を図面にした(週刊誌と同じ大きさ)
 それ以来清水建設竹中工務店八幡製鉄(今の新日鉄)に関連した構造計算の依頼が多くなり、手計算でまだ30%はしていた退職時の60歳まで続きました。退職時までに大小の構造物(建物、煙突、海洋構造物)を合わせれば 600 は残りました。ただし楽ではありませんでした。依頼の内容は外注だから仕方ないけど構造計算の難しい物や特殊な構造物が多く、学校が終えて(生徒との柔道練習の後)からの仕事ですから多くの毎日が夜の2時前に就寝することはありませんでした、特に若い頃は徹夜はしばしばでした。でも教育の指導内容は上がり、他社との付き合いも多くなり生徒の就職先の確保にもつながりました。(これらの事柄は前の項目にも述べています)

特に記憶にのこったもの(60歳まではすべて手計算でした)
30歳の中頃。長崎造船所(下中上段に、30105tの3段走行クレーンを持つ)
40歳頃。羽犬塚近くのブリジストンのタイや倉庫(7棟の山形連続ラーメン屋根)
50歳頃筑紫野市諸田の農業者スポーツセンターの体育館(当時西日本唯一の立体トラス屋根)
その外20代の終わり頃「福岡市の地盤構造図制作」これは日本最初の都市地盤構造図です。
 年間の土日曜の半数は札幌~沖縄まで構造関係の講義をしました。
 
 
 これら内職の仕事は周囲の非難も多いけど教師には「教育公務員特例法」もあり、税金を完納すればなんら問題はありません、ただし任命権者の許可は必要になります。私は若いころ邸宅を設計した有名な精神病院長にお願いし、友人だった福岡市長から教育長をえて直接に許可を貰いました。校長に頼んだら教育委員会とかにも書類が廻りややこしくなる(後の項目にも記述)。

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穂高建築研究所
 これらの仕事は全ての教師としてとても役にたちます。今はコンピュターの時代ですから私達の時代と違いどんな内容でも的確に短時間でスピーディーに色んな仕事が処理出来ると思います。あまり周囲に気を使わず心配なくまた躊躇なくやって下さい、ただし管理職になろうとか、眼先の学校内での出世なんか考えてはダメです、飽くまでも技術者・専門家としての成功を目指さなければなりません。人生は長い退職後も結構時間があります私の知った元管理職者・校長で退職後定職のある方を一人も知りません。若い内から専門家・技術者としての生きる決意を持って下さい、何よりも生徒の為にも貴方の為にもなります。

 今や、生活するには「資格」が必要です、私は幸いに構造計算の専門技術を修得できました、皆様もそれぞれの専門の道を極めて下さい建築士にも資格が必要ですから40歳代までは福岡市を中心に九州一円で土日祭日は資格協会などの依頼で各地で講義をしてきました、50歳代になりますと関西の各都市からの依頼もあり、更にブーイングの中に”博多の先生を呼んで来い”とかもあって名古屋、北陸更に札幌から沖縄まで講義をすることになり数年前まで続きました。退職後の一時は市内の専門学校にも席を置き、終始私は専門の仕事をすることができまた。

 先生方も将来を見据え,思い切って専門とする会社等とタイアップし、持っている技術の研鑚に更に努力して下さい。必ずや生徒も貴方の生涯を幸せにすることが出来ると信じています。

 日本j人はいまや100歳以上の方は3万人を超えています、2050年頃には優に30万人以上は超すでしょう。これは定年後の時間が長いことを意味します、私も定年後25年になりましたが幸いこの間、専門の仕事が幾らかでも続きました(今年から眼が少し悪くなり辞めました)、皆さんも定年後のことも考え、若い内(40歳まで)までに応用の利く技術を養っておいてください。
 
歳老いて、全てでないでしょうが精神科の医者によりますとボランテイアばかり続けるとボケが進行するそうです、やはり人間は責任のある仕事を続けることが大切です。

  当然収入もあります、お陰で研究費も出来、多くの世界の有名建築物を見て回ることができました。先生方、人様の批判ばかりせず(心の小さい者が人の批判ばかりする)持ってある技術を生かしてください、
 若い先生、頑張れ。

教育公務員特例法」要約
  17条、21条には、教員は絶えず研究と教養に努めなければならないことと、教員は任命権者の認める場合はその事に従事することが出来ることが記されています、また報酬も受けて良いことになっています。
 S30年代の当時は、日本建築学会や日本建築設計協会では、勉強と研究のため、ある程度は設計に納税義務を守ることを条件として、参加することを奨励していました、素晴しい時代でした

お願い(このブログ、他科の先生や後輩の先生に読むように伝えて下さい)

学生(私)の研究を自分達の研究にして発表した教授
  も読んで下さい。(面白いです)

公務員教師(給料が確実に入る)を30年も続けていると、人様に頭を下げることが出来なくなる。若い内から技術的な内職をして、感謝して謝礼を貰えることを覚えたがよい
●高齢になりました、眼も大分悪くなりました、ブログも今回が初めてです故コメントは控えさせて頂きます。


 

戦前、戦中、戦後はこんj時代でした。

 
 
マッカーサーを呼んで来い
 私の家は博多駅近くの機関庫裏でした、機関庫には常時蒸気機関車や客車を修理のため数十台連結してあり、家近くの機関庫には一辺20メ-トル深さ3メートルの四角ですり鉢状の全面石張りの池があります、この水は中水で列車や修理に使用する大切な水です。
 一方私の町内は吹き溜まりに近い町ですが立派な勇ましい青年が居ました、戦時中は学徒動員で南方方面の特攻隊の生き残りです、中央大学出身で英語が堪能で、当時珍しく県庁と福岡警察で嘱託の通訳をしていると聞いています、もの静かな方で背中には達筆で「南妙法蓮華経」と彫ってあります。奥さんは超美人で当時女優の高峰三枝子さんの様でした、町内の皆が憧れと畏敬の念を持っています、道端で逢うと誰もが頭を下げていました。
 この四角池は私達青少年にとっては格好のプ-ルで遊びのない当時暇さえあれば泳いでいました、でも時々駅員数名が来て大きな声で”出てゆけ”と怒鳴ります、その度に逃げていました。
 ある日逃げていた時、丁度通りかかっていたこの若者が”この時代です遊ばしたください”嘆願していますがなかなか聞いてくれません、この駅裏の町民は何十もの機関車から出る煤でどれだけ困っているか考えて下さいとも嘆願していました。痺れが来たのか駅員の一人が”これはマッカーサーの命令だ”と言った時この青年頭に来たのでしょう、度胸のある声でマッカーサーを呼んで来い」「マッカーサーと話し合おう」言っています、3人ばかりいた駅員は静かに帰って行きました、この喧嘩超超面白かった。(現今、蒸気機関車はレトロブームで大変人気がありますが私は見たくもありません、子供の頃の家の裏は大きな機関庫で、これから出る機関車の煤混りの煙を思い出し例えブームとはいえ見たくもない。)
 これに限らず当時の公務員は皆んな市民、国民とトラブルがあるとマッカーサーの名を出していました。今でも公務員は「許認可権」を持っているから市民の声をあまり聞こうとしません、威張っています。10年程前私の専門とする耐震偽装問題がありました、皆偽装した建築士に責任を擦りつけていますが本当は担当公務員の威張ることしか知らない勉強不足からきているんです。(公務員は生活が安定しているので当時は一般に勉強しない、故に偽装を見抜けなかった)、

●小学生時代学芸会には出た事もないし、練習を見たこともない
 私は小さい時から病気がちで胃腸は弱く寝小便ばかりでした、背もクラスでビリから二番目でした、当然成績は悪く所謂超ボンクラでした、家ではおふくろからも学校の先生からも”バカ”と言われていました、親父はおふくろにバカとだけは言ってはだめ、本当にバカになると注意していました。毎年秋頃になると夕食時親父が”今年は学芸会に出るのか”と聞きます。”出ない”と答えると”勉強もせん、宿題もせん、先生の言うことも守らん、そんな生徒を先生が好きになる分けがない”と叱ります、明日学校に行ったら”教科書の一ページでも読ましてくださいと頼め”と言います。お袋はどこそこのA君は毎年出して貰ってる、とかB君は今年は主役で出なさる、とか言いますので、悲しくなって何時も泣きながら味もしないご飯を食べていました。姉も兄も成績は良いのに私のボンクラには情けなかったのでしょう。   二つ違いの弟はこの年は白虎隊の隊長として出演します、隊員皆が相討ちした後短剣で喉を突いて自決するそうです。学芸会の朝のお袋は早朝から綺麗な着物を着て、鏡の前で立ったり座ったり嬉しそうでした。
 学芸会に出られない事は仕方のないことですが、皆が練習中も出ないクラスの何時もの生徒5人は誰もいない運動場で相撲やドッチボール等をしていました、誰もいない運動場で遊ぶのは楽しかった。小5年になると大東亜戦争も始まり学芸会が無くなりました。
 参考まで(精神科の先生によれば、寝小便する子供は、"また明日小便したらと
何時も心配するので、大人になっても将来の事を考え無理な事をしないそうです、貯蓄はしても賭けごととかはしないと言っていました"そういえば私は賭け事は一切しない
 私は子供の頃親を喜ばすことがありませんでしたが、一つだけ私も褒められたことがあります、親父が”進は勉強は出来んけど工作が好きやけん大工で飯が食える”と言ってお袋を慰めていました、でも大工は頭が居るけんね。模型飛行機や潜水艦なんかを作り出したらナイフ一つで一日中でも休むことなく作っていました、楽しかった。6年の時作った飛行艇は何時までもガラスの飾棚に飾ってありました、飛行機大会の時は私の飛行機が一番飛びました。だから工業学校は自ら希望して木材工業(航空)科に入りました、当時は金属が不足し木製の航空機が盛んに研究された時代です。でも戦況が厳しくなり勤労奉仕や学徒動員、戦後はB29で学校が焼けた跡、先生と生徒のみでの学校建設等で勉強のあまり無い工高時代も終わったようです。

●「ウンコ」してそのまま学校を帰らされた、辛かった。
 小3年生の冬でした、胃腸の弱い私は病気の度に飲みにくい「ヒマシュウ油」を飲まされていました、午前中でした,腹が愚図るので先生に便所に行かせて下さいとお願いしたら、宿題をしてなかったかからと思う先生が怒り”我慢しなさい”と言われました、がとうとう"しかぶり"ました。先生がそのまま帰れと言われ、田圃の中を北風に煽られながら泣きながら2キロの道を帰りました、この辛かった事昨日のようです。帰るとお袋が冷たい井戸水でお尻を洗ってくれました、またその冷たいこと。
 4年の終業式で校長先生と女の担任の先生が壇上に立っています、話を聞いていると結婚して中国にある青島市にお嫁に行くとかでした、クラスに帰ると半数の女の生徒が皆な泣いています、男の何人かも泣いています。あの怖い先生が居なくなるのを知った私は嬉しくなるばかりでしたが下を向いてじっとしていました。
 あの先生は無事で帰国されたでしょうか、あの先生のお陰で人様を軽蔑したり侮辱しない精神を育ててくれました中国・韓国(特に若い女性)からの帰国者は言葉にされないぐらい苦労されました。

●ピーナツをやらないで予科錬帰りの先輩から殴られた
 戦後学校は焼けだされたので港近くの奈良屋小学校での仮校舎で暫く授業がありました、この校舎鉄筋の校舎だったので焼けのこったのす。周囲は広く焼け野原でした。超食糧難の時代、進駐軍の接たいしていた料理屋の友人と5人程での学校帰り道、料理屋の友人一人でピーナツをむしゃむしゃ食べています、たまりかねて喧嘩の強い一人の友が”俺にもやれ”と言いましたが”いや”と言いそのまま皆で博多駅まで歩いて帰りました。(ピーナツを見たこともない時代です、"いや"とかあんなことが良く言えるものです,優越感を味わっていたのでしょう,彼は日本将校関係の料理屋なので戦時中から皆が欲しがる御菓子なんかを皆の前でよく食べていまた)。
 翌日鼻血を一杯出し、少し泣きながら運動場隅の足洗い場で顔や血の着いた服を洗っています、クラスの者に聞くと「廊下でピーナツを食べている時、予科錬帰りの先輩から、要求され断ったのが原因で数人からメチャメチャに殴られたそうです」皆な罰あ当たったと喜んでいました、彼は40歳前、市内の丘の上に立派な自宅を建てましたが、何故だかそれから間もなく逝ってしまいました、贅沢しすぎて活性酸素が多くなったのかも。

●私の「研究」を自分の研究にして日本建築学会で発表した九大教授。
 教師をしながら九大(名を借りるだけ、建築工学科,佐治教授、コンクリート工学で内地留学していた29のとき、「福岡市地盤構造図」を福岡市教育長に提出するため、生徒から手伝ってもらい完成したことがありました。毎年出版されている「福岡県工業高校教育研究会誌3号」に掲載いたしました。その一年後九大のコンクリート専門の佐治教授から”日本建築学会”で発表しようと相談があったので喜んで資料を渡しました(地盤図ですからこの資料を集めるのが大変でした、当時はまだ井戸やさんも地盤調査していた時代ですから一つ一つの資料にとても価値があります)。
 出来たのを見てビックリです、編集者は九大土木工学の教授5,6名、建築工学の教授5,6名、県庁の役人で局長とか部長とか課長7,8名程、他数名そして私は高校教諭でしがないからでしょう名前が最後にありました、驚きました。大学教授の学者なんかよってたかって学生の研究の分まで取って自分の名を売ろうとするんですね。(当時珍しく一冊4000で発表会のとき販売してありました、誰が収入を得たのでしょう)。
  後に資料を渡した教授の名で日本建築学会で発表
                       世の中ってこんなものです
 都市の地盤図はその後、熊本市北九州市と続き今では全国都市に地盤図が出来ています(当時はまだ大阪にも東京にもありませんでした)。
福岡県工高研究会誌(研究と報告)に載せた福岡市地盤図の概要を下記に示す

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●福岡市大濠公園中之島には日本の若い女性以外は立ち入り禁止
 戦争に負けることは悲惨です、また沖縄基地で日本女性が悲惨な目に遭いました、沖縄は防衛上の地理的に防衛上の要でその優位性の大切さは分かるが如何したら悲惨な事件の解決ができましょうか。
 福岡市の真ん中に周囲2キロの濠があり、この一帯は福岡城の跡地で市民にとっても観光にとっても最高の場所です、当時隣に私の工業高校がありました。
 この大濠公園の真ん中にあるパール状の中之島は、戦後朝鮮動乱の終わる数年の間、若い日本女性以外は立ち入り禁止でした、この横に米軍から接収された軍の病院がありました。
       
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 当時は超食糧難の時代、日本女性も生活のため、身を削っていたんですね、ボートに乗ってこの中の島に近ずくと皆楽しそうでした、米軍はよくピストルで日本人が乗っていたボートをよくピストルで撃っていた、幸い私は撃たれなかった。
 戦後数年の後こんな出来事がありました、当時ドブ川の中州の博多川に日本の女性を数人、酔っぱらった米軍兵士が投げこんだ事件がありました、悲しい。
 戦後、進駐軍の基地が博多湾の向こうの西戸崎にありました、酔った米兵が日本女性をジープに乗せ基地につれて行く途中、道路に女を投げ落しジープで前進バックを数回繰り返し挽き殺した事件もありました、少年の頃でしたがこの話を聞いた時やりきれなかった、悲しい。

●6月19日は福岡大空襲です
 夜中の11時頃、空襲警報で眼をさましたら既にB29が頭上です、寝苦しかったのでしょう裸のまま防空壕に入りましたのでお袋から喧しくしかられました、動員中でしたが工場には行かず、指図どうり学校に行きましたがすっかり全焼、B29は全機205機だったそうです、市内で約1500人以上が焼死しています。空襲時間は約30分で終わりました。何故だか校内の焼け野原の真ん中(朝の10時頃)に香りの良い「ラクダの絵の入ったアメリカの煙草が落ちていました」直ぐ交番に届けました。
 焼け後にはアッチコッチと女や子供が泣け叫んでいます、死体も沢山見ました。救助班の方が罹災者に乾パンを配ってありました、それを見ていた私達は”焼け出された者は良いな、乾パンが食べられて”口ぐちに話していました、
戦中・戦後は超超食糧難の時代でした、よくこんな状態で戦争をしたもんです。
大国アメリカと戦争した日本軍の参謀はなんて馬鹿か
参謀は技術を知らなすぎた。