出版した本

f:id:susumu7286:20191017192958j:plain

[家庭に不和が生ずるのは・・・・この出版本は500冊の殆どを、市内の建築設計事務所やお寺さんに贈りましたので在庫がありません」

「ボンクラの出版本の内容は、若い頃、福間の精神病院長や、九大の精神科の先生の自宅を設計した当時、色んな事を教えて頂いた事柄をベースにしています。この内九大の先生は特に脳科学についてノーベル賞を政治的な理由で貰えなかった先生で有名な先生です」

 

 

アラカルト、
●工高の同級生立和田実君と大村文男さん(山荘会創設者の一人)が由布岳での偶然の出会いから永瀬隆博さん(従来の山の友)と三人で山荘会に入会しました。私が27歳の頃山荘会に入会して山荘会最初の遠出が日本北アルプスで10名程の参加者でした、隊長は美濃井芳夫(写真の最上)さんです、当時は交通がままならずアルプスの麓に行くまでが大変でした。隊長以外は皆な初めての遠出ですから麓から興味津々で、これが梓川とか、これが河童橋とか美濃井さんの説明に胸が震えたのを覚えています。
たしか穂高岳山頂までの途中のコルで一夜ビバークしました、

いよいよ山頂に近づいた頃です、あと7~8分も登れば山頂という少し平らな処で隊長から小休止の合図がありました、あと少しの処で何故と疑問を感じました、隊長の説明では “山頂の手前では必ず休みなさい、一気に登ってはダメです、これまで随分苦労して此処まできました、これまでの苦労を顧みながら気持ちを落ちつけ、山頂には感謝して山頂に登らなければいけません”、これは我々の人生と同じです との説明でした、なんと素晴らしい指導でしょう、凄い山頂は眺望も良く、澄み切った空気でした、帰りはたしか穂高の麓あたりから

f:id:susumu7286:20191017171022j:plain

     
松本城までを長い区間タクシーでした。

このグループの中、新貝勲さん(法務教官で写真の最左)は特に山で活躍された方で日本山岳会
において “”1982、K2を登山隊長として登高に成功され、国内でとても有名になられ映画にもなっています、著書も「氷河の暖風」”“ あり。(博多工高でも公演あり)
「K2はとても険しい山だそうです、エベレストは現在まで何千人も登高されたが、K2の登高者は数十人と聞いています」

工高の教師は「特例法」で専門の内容でしたら県知事又は市長の許可を貰って別に仕事が出来ます、30歳の初め頃 “構造計算”での許可を貰って城南区梅林に「穂高建築研究所」を開設しました。この穂高の名称は穂高岳での隊長さんの素晴らしい指導を受けた場所から来ています。お陰でこの研究所では随分仕事も勉強もできました。 一つの仕事の終わり頃は何時も美濃井さんのあの指導を思いだし再度考える事にしました、お陰で失敗は殆どありませんでした。

「60歳まで、手による構造計算した。記憶にのこるものに、
135の頃、長崎造船所(下中上段の30t。10t、5t走行クレーンを持つ)
2九州高速自動車道からよく見える“羽犬塚近くのブリジストンの山形7連棟のタイャの倉庫(40頃)。や、
3筑紫野市諸田の農業者スポーツセンターの西日本初の立体トラスを使った体育館(50頃」があります。
4外に福岡市地盤構造図(20代の終わり頃)がある”これは日本最初の都市地盤構造図です

 

●またお陰で年間の土日の半分以上は札幌から那覇まで構造関係の講義をすることが出来ました(84歳まで)。」


・・今、山荘会はありませんが、この写真の方々は今どうしているでしょう、宜しく伝えて下さい。
(美濃井さん、新貝さん、は逝く、)・・

 


●柔道の指導も大切ですが、部活動には山岳部をつくり顧問を兼任することにしました。34歳の頃でした、生徒8名ほどで久住山頂の真ん中でのことです、元々天候は悪かったが突然猛吹雪に遭いました、風が収まるまで岩陰に隠れ蹲りましたがなかなか強風が納まりません、生徒の一人が寒暖計を見て “マイナス32度です” と呟きました、今までこんな寒気に出会ったことがない私は驚きました、重装備でもない我々です、困った、これから早く脱出しなければと考えていた時、幸いに風の息が少し納まりました、急いで下山したのが幸いし“坊ヶつるのテント”まで辿り着きました、あのときウカウカしていたら全員遭難していたかもしれません、今考えても身震いがします、以後無理な登山は。
●(小生、只今毎日沢山の薬とサプリメントを飲んでいます、よく生きている、もうすぐ死ぬでしょう。                   2018・11・吉日 北島進   

 

 

博多工高同窓会役員の皆様、と博工卒で教師をした先生、

 

 (少し失礼なお願いかもしれません) 

日頃、博工同窓生のお世話と、博多工高の社会的地位向上のため努力されておられる皆様に感謝しています、私は博工の教師を38年、その後27年を過ぎ、若い頃は当役員もしていました、只今87歳、今思うことは依然として博工の社会的地位と名誉がなかなか伸びないので、やや寂しい思いをしています。

例えば、有名私立大学入学には2ッの方法があります

  • 1ッは 通常の大学入学試験、
  • 2ッは 簡単な面接の推薦入学がありますが. 
  1. 博工はその②にはなかなか入りません(福工は入っている)。

少しでも社会的地位を向上する為、こんなことを考えています。

私の卒業は S25年ですが先輩にも後輩にも専門的な本を含み出版した方はいません、(もし間違っていたらご勘弁を)そこでこの私の出版本(子供の頃はボンクラでもよか)を役員と博工卒の先生方、それぞれ5冊ぐらいを買って頂き貴方の最も親しい方に“プレゼント”をして下さい。

プレゼントされたその友人は、博工にも専門的な本を出版する者もいるだと認識されるはずです、少しでも博工卒業生のなんらかの社会的地位向上につながると確信しています。

  • 同窓会長の津田様は10冊買って頂きました。
  • この出版本が売れても私には一銭の収入にもなりません。
  • 私のプロフイル 

S19第二工業学校木材工業科(木製飛行機科)入学~S25博多工高木材工芸科卒

S25の1年間 直方ろう学校助教諭、筑豊定時制

S30 大阪工業大学卒、同年博多工高建築科教師

途中から定年まで福岡県建築士試験委員 

 何れも手計算当時の構造計算で代表的なもの

30歳の初め頃。30t、10t、5tの3層走行クレーンをもつ長崎造船所

30歳の終り頃。ブリジストンの6連山形の羽犬塚のタイヤ倉庫

50歳の中頃。立体トラスを持つ筑紫野市(農業者センター)の体育館

20歳の終り頃。日本最初の都市地盤図(福岡市)

30~84歳まで札幌から那覇まで構造と資格指導の講義 

 

私の出版本とプロフイル(出版社は何れも福岡市の海鳥社

f:id:susumu7286:20190922101201p:plain

私達2人の写真卒業生の要望もあり)

先生方の活躍の場はもっとある

 

 

●先生方の活躍の場はもっとあります...

 この項目は、「全国工業高校の工業・技術の若い先生に読んで頂く為につくりました」 
 S30年、福岡市立博多工業高校建築科教師(1932/2月生)、卒業生はじめ特に専門の建設業界の方から色んな面で助けて頂きました。この項目の内容は、技術・工業・職業・理科等を選択してある中学・高校の先生の将来の生き方を含めて参考になれば幸いです、なると信じています。
 教師をして4年程でした(それまでは大きな精神病院長宅や個人住宅等を数件設計)、市内の建築設計事務所勤務の卒業生が特殊建築物の構造計算の依頼を持ってきました、”私の紹介する先生はこれぐらいは直ぐ計算出来ます”と言ったので絶対に断らないで下さい、断ると私が恥をかきますとの厳しい条件でした。この事柄は、昨年出版した「子供の頃は”ボンクラ”でもよか」、(出版社は福岡市の海鳥社の34ページを参照にして下さい。
イメージ 1
表紙はゴッホの跳ね橋を図面にした(週刊誌と同じ大きさ)
 それ以来清水建設竹中工務店八幡製鉄(今の新日鉄)に関連した構造計算の依頼が多くなり、手計算でまだ30%はしていた退職時の60歳まで続きました。退職時までに大小の構造物(建物、煙突、海洋構造物)を合わせれば 600 は残りました。ただし楽ではありませんでした。依頼の内容は外注だから仕方ないけど構造計算の難しい物や特殊な構造物が多く、学校が終えて(生徒との柔道練習の後)からの仕事ですから多くの毎日が夜の2時前に就寝することはありませんでした、特に若い頃は徹夜はしばしばでした。でも教育の指導内容は上がり、他社との付き合いも多くなり生徒の就職先の確保にもつながりました。(これらの事柄は前の項目にも述べています)

特に記憶にのこったもの(60歳まではすべて手計算でした)
30歳の中頃。長崎造船所(下中上段に、30105tの3段走行クレーンを持つ)
40歳頃。羽犬塚近くのブリジストンのタイや倉庫(7棟の山形連続ラーメン屋根)
50歳頃筑紫野市諸田の農業者スポーツセンターの体育館(当時西日本唯一の立体トラス屋根)
その外20代の終わり頃「福岡市の地盤構造図制作」これは日本最初の都市地盤構造図です。
 年間の土日曜の半数は札幌~沖縄まで構造関係の講義をしました。
 
 
 
 これら内職の仕事は周囲の非難も多いけど教師には「教育公務員特例法」もあり、税金を完納すればなんら問題はありません、ただし任命権者の許可は必要になります。私は若いころ邸宅を設計した有名な精神病院長にお願いし、友人だった福岡市長から教育長をえて直接に許可を貰いました。校長に頼んだら教育委員会とかにも書類が廻りややこしくなる(後の項目にも記述)。
イメージ 2

 


穂高建築研究所
 これらの仕事は全ての教師としてとても役にたちます。今はコンピュターの時代ですから私達の時代と違いどんな内容でも的確に短時間でスピーディーに色んな仕事が処理出来ると思います。あまり周囲に気を使わず心配なくまた躊躇なくやって下さい、ただし管理職になろうとか、眼先の学校内での出世なんか考えてはダメです、飽くまでも技術者・専門家としての成功を目指さなければなりません。人生は長い退職後も結構時間があります私の知った元管理職者・校長で退職後定職のある方を一人も知りません。若い内から専門家・技術者としての生きる決意を持って下さい、何よりも生徒の為にも貴方の為にもなります。

 今や、生活するには「資格」が必要です、私は幸いに構造計算の専門技術を修得できました、皆様もそれぞれの専門の道を極めて下さい建築士にも資格が必要ですから40歳代までは福岡市を中心に九州一円で土日祭日は資格協会などの依頼で各地で講義をしてきました、50歳代になりますと関西の各都市からの依頼もあり、更にブーイングの中に”博多の先生を呼んで来い”とかもあって名古屋、北陸更に札幌から沖縄まで講義をすることになり数年前まで続きました。退職後の一時は市内の専門学校にも席を置き、終始私は専門の仕事をすることができまた。

 先生方も将来を見据え,思い切って専門とする会社等とタイアップし、持っている技術の研鑚に更に努力して下さい。必ずや生徒も貴方の生涯を幸せにすることが出来ると信じています。

 日本j人はいまや100歳以上の方は3万人を超えています、2050年頃には優に30万人以上は超すでしょう。これは定年後の時間が長いことを意味します、私も定年後25年になりましたが幸いこの間、専門の仕事が幾らかでも続きました(今年から眼が少し悪くなり辞めました)、皆さんも定年後のことも考え、若い内(40歳まで)までに応用の利く技術を養っておいてください。
 
歳老いて、全てでないでしょうが精神科の医者によりますとボランテイアばかり続けるとボケが進行するそうです、やはり人間は責任のある仕事を続けることが大切です。

  当然収入もあります、お陰で研究費も出来、多くの世界の有名建築物を見て回ることができました。先生方、人様の批判ばかりせず(心の小さい者が人の批判ばかりする)持ってある技術を生かしてください、
 若い先生、頑張れ。

教育公務員特例法」要約
  17条、21条には、教員は絶えず研究と教養に努めなければならないことと、教員は任命権者の認める場合はその事に従事することが出来ることが記されています、また報酬も受けて良いことになっています。
 S30年代の当時は、日本建築学会や日本建築設計協会では、勉強と研究のため、ある程度は設計に納税義務を守ることを条件として、参加することを奨励していました、素晴しい時代でした

お願い(このブログ、他科の先生や後輩の先生に読むように伝えて下さい)

学生(私)の研究を自分達の研究にして発表した教授
  も読んで下さい。(面白いです)

公務員教師(給料が確実に入る)を30年も続けていると、人様に頭を下げることが出来なくなる。若い内から技術的な内職をして、感謝して謝礼を貰えることを覚えたがよい
●高齢になりました、眼も大分悪くなりました、ブログも今回が初めてです故コメントは控えさせて頂きます。


 

戦前、戦中、戦後はこんj時代でした。

 
 
マッカーサーを呼んで来い
 私の家は博多駅近くの機関庫裏でした、機関庫には常時蒸気機関車や客車を修理のため数十台連結してあり、家近くの機関庫には一辺20メ-トル深さ3メートルの四角ですり鉢状の全面石張りの池があります、この水は中水で列車や修理に使用する大切な水です。
 一方私の町内は吹き溜まりに近い町ですが立派な勇ましい青年が居ました、戦時中は学徒動員で南方方面の特攻隊の生き残りです、中央大学出身で英語が堪能で、当時珍しく県庁と福岡警察で嘱託の通訳をしていると聞いています、もの静かな方で背中には達筆で「南妙法蓮華経」と彫ってあります。奥さんは超美人で当時女優の高峰三枝子さんの様でした、町内の皆が憧れと畏敬の念を持っています、道端で逢うと誰もが頭を下げていました。
 この四角池は私達青少年にとっては格好のプ-ルで遊びのない当時暇さえあれば泳いでいました、でも時々駅員数名が来て大きな声で”出てゆけ”と怒鳴ります、その度に逃げていました。
 ある日逃げていた時、丁度通りかかっていたこの若者が”この時代です遊ばしたください”嘆願していますがなかなか聞いてくれません、この駅裏の町民は何十もの機関車から出る煤でどれだけ困っているか考えて下さいとも嘆願していました。痺れが来たのか駅員の一人が”これはマッカーサーの命令だ”と言った時この青年頭に来たのでしょう、度胸のある声でマッカーサーを呼んで来い」「マッカーサーと話し合おう」言っています、3人ばかりいた駅員は静かに帰って行きました、この喧嘩超超面白かった。(現今、蒸気機関車はレトロブームで大変人気がありますが私は見たくもありません、子供の頃の家の裏は大きな機関庫で、これから出る機関車の煤混りの煙を思い出し例えブームとはいえ見たくもない。)
 これに限らず当時の公務員は皆んな市民、国民とトラブルがあるとマッカーサーの名を出していました。今でも公務員は「許認可権」を持っているから市民の声をあまり聞こうとしません、威張っています。10年程前私の専門とする耐震偽装問題がありました、皆偽装した建築士に責任を擦りつけていますが本当は担当公務員の威張ることしか知らない勉強不足からきているんです。(公務員は生活が安定しているので当時は一般に勉強しない、故に偽装を見抜けなかった)、

●小学生時代学芸会には出た事もないし、練習を見たこともない
 私は小さい時から病気がちで胃腸は弱く寝小便ばかりでした、背もクラスでビリから二番目でした、当然成績は悪く所謂超ボンクラでした、家ではおふくろからも学校の先生からも”バカ”と言われていました、親父はおふくろにバカとだけは言ってはだめ、本当にバカになると注意していました。毎年秋頃になると夕食時親父が”今年は学芸会に出るのか”と聞きます。”出ない”と答えると”勉強もせん、宿題もせん、先生の言うことも守らん、そんな生徒を先生が好きになる分けがない”と叱ります、明日学校に行ったら”教科書の一ページでも読ましてくださいと頼め”と言います。お袋はどこそこのA君は毎年出して貰ってる、とかB君は今年は主役で出なさる、とか言いますので、悲しくなって何時も泣きながら味もしないご飯を食べていました。姉も兄も成績は良いのに私のボンクラには情けなかったのでしょう。   二つ違いの弟はこの年は白虎隊の隊長として出演します、隊員皆が相討ちした後短剣で喉を突いて自決するそうです。学芸会の朝のお袋は早朝から綺麗な着物を着て、鏡の前で立ったり座ったり嬉しそうでした。
 学芸会に出られない事は仕方のないことですが、皆が練習中も出ないクラスの何時もの生徒5人は誰もいない運動場で相撲やドッチボール等をしていました、誰もいない運動場で遊ぶのは楽しかった。小5年になると大東亜戦争も始まり学芸会が無くなりました。
 参考まで(精神科の先生によれば、寝小便する子供は、"また明日小便したらと
何時も心配するので、大人になっても将来の事を考え無理な事をしないそうです、貯蓄はしても賭けごととかはしないと言っていました"そういえば私は賭け事は一切しない
 私は子供の頃親を喜ばすことがありませんでしたが、一つだけ私も褒められたことがあります、親父が”進は勉強は出来んけど工作が好きやけん大工で飯が食える”と言ってお袋を慰めていました、でも大工は頭が居るけんね。模型飛行機や潜水艦なんかを作り出したらナイフ一つで一日中でも休むことなく作っていました、楽しかった。6年の時作った飛行艇は何時までもガラスの飾棚に飾ってありました、飛行機大会の時は私の飛行機が一番飛びました。だから工業学校は自ら希望して木材工業(航空)科に入りました、当時は金属が不足し木製の航空機が盛んに研究された時代です。でも戦況が厳しくなり勤労奉仕や学徒動員、戦後はB29で学校が焼けた跡、先生と生徒のみでの学校建設等で勉強のあまり無い工高時代も終わったようです。

●「ウンコ」してそのまま学校を帰らされた、辛かった。
 小3年生の冬でした、胃腸の弱い私は病気の度に飲みにくい「ヒマシュウ油」を飲まされていました、午前中でした,腹が愚図るので先生に便所に行かせて下さいとお願いしたら、宿題をしてなかったかからと思う先生が怒り”我慢しなさい”と言われました、がとうとう"しかぶり"ました。先生がそのまま帰れと言われ、田圃の中を北風に煽られながら泣きながら2キロの道を帰りました、この辛かった事昨日のようです。帰るとお袋が冷たい井戸水でお尻を洗ってくれました、またその冷たいこと。
 4年の終業式で校長先生と女の担任の先生が壇上に立っています、話を聞いていると結婚して中国にある青島市にお嫁に行くとかでした、クラスに帰ると半数の女の生徒が皆な泣いています、男の何人かも泣いています。あの怖い先生が居なくなるのを知った私は嬉しくなるばかりでしたが下を向いてじっとしていました。
 あの先生は無事で帰国されたでしょうか、あの先生のお陰で人様を軽蔑したり侮辱しない精神を育ててくれました中国・韓国(特に若い女性)からの帰国者は言葉にされないぐらい苦労されました。

●ピーナツをやらないで予科錬帰りの先輩から殴られた。
 戦後学校は焼けだされたので港近くの奈良屋小学校での仮校舎で暫く授業がありました、この校舎鉄筋の校舎だったので焼けのこったのす。周囲は広く焼け野原でした。超食糧難の時代、進駐軍の接たいしていた料理屋の友人と5人程での学校帰り道、料理屋の友人一人でピーナツをむしゃむしゃ食べています、たまりかねて喧嘩の強い一人の友が”俺にもやれ”と言いましたが”いや”と言いそのまま皆で博多駅まで歩いて帰りました。(ピーナツを見たこともない時代です、"いや"とかあんなことが良く言えるものです,優越感を味わっていたのでしょう,彼は日本将校関係の料理屋なので戦時中から皆が欲しがる御菓子なんかを皆の前でよく食べていまた)。
 翌日鼻血を一杯出し、少し泣きながら運動場隅の足洗い場で顔や血の着いた服を洗っています、クラスの者に聞くと「廊下でピーナツを食べている時、予科錬帰りの先輩から、要求され断ったのが原因で数人からメチャメチャに殴られたそうです」皆な罰あ当たったと喜んでいました、彼は40歳前、市内の丘の上に立派な自宅を建てましたが、何故だかそれから間もなく逝ってしまいました、贅沢しすぎて活性酸素が多くなったのかも。

●私の「研究」を自分の研究にして日本建築学会で発表した九大教授。
 教師をしながら九大(名を借りるだけ、建築工学科,佐治教授、コンクリート工学で内地留学していた29のとき、「福岡市地盤構造図」を福岡市教育長に提出するため、生徒から手伝ってもらい完成したことがありました。毎年出版されている「福岡県工業高校教育研究会誌3号」に掲載いたしました。その一年後九大のコンクリート専門の佐治教授から”日本建築学会”で発表しようと相談があったので喜んで資料を渡しました(地盤図ですからこの資料を集めるのが大変でした、当時はまだ井戸やさんも地盤調査していた時代ですから一つ一つの資料にとても価値があります)。
 出来たのを見てビックリです、編集者は九大土木工学の教授5,6名、建築工学の教授5,6名、県庁の役人で局長とか部長とか課長7,8名程、他数名そして私は高校教諭でしがないからでしょう名前が最後にありました、驚きました。大学教授の学者なんかよってたかって学生の研究の分まで取って自分の名を売ろうとするんですね。(当時珍しく一冊4000で発表会のとき販売してありました、誰が収入を得たのでしょう)。
  後に資料を渡した教授の名で日本建築学会で発表
                       世の中ってこんなものです
 都市の地盤図はその後、熊本市北九州市と続き今では全国都市に地盤図が出来ています(当時はまだ大阪にも東京にもありませんでした)。
福岡県工高研究会誌(研究と報告)に載せた福岡市地盤図の概要を下記に示す

イメージ 2
 
 


●福岡市大濠公園中之島には日本の若い女性以外は立ち入り禁止
 戦争に負けることは悲惨です、また沖縄基地で日本女性が悲惨な目に遭いました、沖縄は防衛上の地理的に防衛上の要でその優位性の大切さは分かるが如何したら悲惨な事件の解決ができましょうか。
 福岡市の真ん中に周囲2キロの濠があり、この一帯は福岡城の跡地で市民にとっても観光にとっても最高の場所です、当時隣に私の工業高校がありました。
 この大濠公園の真ん中にあるパール状の中之島は、戦後朝鮮動乱の終わる数年の間、若い日本女性以外は立ち入り禁止でした、この横に米軍から接収された軍の病院がありました。
       
イメージ 1
 当時は超食糧難の時代、日本女性も生活のため、身を削っていたんですね、ボートに乗ってこの中の島に近ずくと皆楽しそうでした、米軍はよくピストルで日本人が乗っていたボートをよくピストルで撃っていた、幸い私は撃たれなかった。
 戦後数年の後こんな出来事がありました、当時ドブ川の中州の博多川に日本の女性を数人、酔っぱらった米軍兵士が投げこんだ事件がありました、悲しい。
 戦後、進駐軍の基地が博多湾の向こうの西戸崎にありました、酔った米兵が日本女性をジープに乗せ基地につれて行く途中、道路に女を投げ落しジープで前進バックを数回繰り返し挽き殺した事件もありました、少年の頃でしたがこの話を聞いた時やりきれなかった、悲しい。

●6月19日は福岡大空襲です
 夜中の11時頃、空襲警報で眼をさましたら既にB29が頭上です、寝苦しかったのでしょう裸のまま防空壕に入りましたのでお袋から喧しくしかられました、動員中でしたが工場には行かず、指図どうり学校に行きましたがすっかり全焼、B29は全機205機だったそうです、市内で約1500人以上が焼死しています。空襲時間は約30分で終わりました。何故だか校内の焼け野原の真ん中(朝の10時頃)に香りの良い「ラクダの絵の入ったアメリカの煙草が落ちていました」直ぐ交番に届けました。
 焼け後にはアッチコッチと女や子供が泣け叫んでいます、死体も沢山見ました。救助班の方が罹災者に乾パンを配ってありました、それを見ていた私達は”焼け出された者は良いな、乾パンが食べられて”口ぐちに話していました、
戦中・戦後は超超食糧難の時代でした、よくこんな状態で戦争をしたもんです。
大国アメリカと戦争した日本軍の参謀はなんて馬鹿か
参謀は技術を知らなすぎた。


エピソード

素晴しかった筑穂高校の定時制高校
 私がS25年博多工高を卒業し、北九州炭鉱地方の直方ろう学校の助教諭として勤務し”筑豊高校の定時制高校”の4年生に無理にお願いし聴講生として通学していた時のことです。
 このクラスは定時制が出来たS22年の最初の生徒で、当時は大変な超食糧難の時代です、生徒の多くは戦時中南方や中国の戦場で戦い、戦後引き揚げたが方たちばかりです。当時炭鉱の坑道で働くと公務員(当時の公務員の給料はとても低く、若い方の一月の給料で闇米1~2升しか買えない時代です)としての待遇と、米5合の配給が確実にありましたので、この復員者の若い方達の多くがこの炭鉱(当時日本のエネルギーは全て石炭に依存していたので、昭和天皇陛下も坑道まで入られ視察された事もある)に来ていました。中でも今まで戦場のため勉強の出来なかった志のある方が多く、クラスは向学心の凄い熱気がありました。生徒の数は80名程で、机は教室一杯です、だから私は何時も早く出席していました。教室に先生が一旦入るとこの一杯の教室はシーンとなります、それが授業のおわるまで続きます、後の大学でも教師をした高校でもこんな経験はありません。教師をしていた時、福岡市で中高大学の連絡会があった時、九大の先生が近頃の学生は講義中話をするとボヤイテいました、すると中学の先生が今の生徒は我慢するのは15分です、それはテレビでのコマーシャルの間隔は15分だからと説明してありました。この授業中の教室の静けさは4年間続いたんです、凄い。
 漢文の講義の時でした、15分後24,5才ぐらいの生徒が少し酔って教室に入って来ました、今日はお祝いがあってどうしても帰られなく遅刻しました、すみませんと詫びています。戦時中はどんな場合でも一分、一秒でも遅れれば殴られるのが当たり前でしたから、先生が貴様とか言って1,2回は殴るだろうと見ていましたら、先生いわく”酒を飲んだ後でもよく頑張って来ました、後の時間も頑張って下さい”と言われた時は感動しました、今当時のことを思い出しすと感動で胸が震えます。この思い、あとで高校教師になった後でも、生徒を怠け以外での遅刻を理由で叱ったことはありません遅刻にも色々理由があるんですね。この学校で聴講生として一年間でしたが人生の全ての生き方を学びました。
美人は怖い(特に筑豊の女性は怖い)
 工高卒業後筑豊のろう学校で工作の助教諭をしました夜はちかくの定時制高校で猛勉強中です、(工高時代は福岡市の予算不足で学校建設の作業ばかり)。
  助教諭当時の月給は3900円、将来は大学にと少しずつ貯金をしていました、何時もは寮生と食事しますが贅沢は一切なし、夏冬休暇中の食事はいつも切り詰めていました、大学進学の為貯蓄に専念、夜は使用しない教室で寝泊まりしていました。秋頃から1つ違いの美人の先生からしきりにいろんな相談がありましす”A先生が私に惚れて困っています””A先生が付き合いたいと言われるので断った”とか”先生のような真面目な方が好き”とか。
 正月過ぎでした、やっと大学の受験でも可能な幾らかの貯金が出来た頃でした、この美女から「ミシンを買うので1万円貸して」と相談がありました、これには困った、嫌とも言えないしでも貸しました。私にとって当時この1万円の価値は計り知れません。お礼に炊事場用の下駄をもらいました。
 その後私は辛うじて大阪の大学へ、数年後彼女は結婚して住所もわかりません、美人は怖いです。50の半ば学校に逢いたいと電話、借金でも返してもらえるのかと遭いましたが、彼女の家の事ばかり、困ってあるようで返還の話は一切なし、苦労しているようでした。私は今まで色んな方に相談の度に、金を随分かしましたが返ったためしなし、金は貸すべきでない。
 当時の直方市炭鉱都市として人口も多く、市街地の古町・殿町の商店街は昼夜人通りが多くお祭りの様でした、今は何時もガラ―ンとしています、参考まで。
戦後、先生と生徒で建設した博多工高の校舎
●S19福岡市立の博多工業学校の木材工業科(航空)入学(当時は小学校から進学)して半年はj授業があったでしょうか、B29の空襲も始まりあとは勤労奉仕ばかりで、二年になると学徒動員で鉄の鍛錬工場で一生懸命働きました。その間爆撃で学校(今の舞鶴小)は焼け戦後は仮校舎(今の奈良屋小)が一年、その後は城内の地(今の平和台陸上競技場横の、元福岡連隊の後)で学校建設が始まりました。
 当時のわが校は新設、間もない学校(S16紀元2600の記念として福岡市が創設)で、戦後の混乱期(戦後は多くの生徒が学校を退学した)でもあり、総勢350人程の学校でしたが、福岡市の予算不足のため、先生・生徒・大工5人程で学校校舎の建設をやらねばなりません。
 内容は生徒の半数が糸島にあった元小富士航空隊の兵舎を解体し、その資材を肩に担いで5キロばかりの道のりを糸島駅まで運び貨車に積み込みます。国鉄鳥飼駅では後の半数で材料を積み下ろし、6キロ先の城内まで肩に担いで運搬します、運んだ資材からの釘抜きも大変でした。材料を整えた後、全員で基礎造りから大工交じりの全員で校舎建設です、教室が出来るまでの二年半は全く授業がありませんでした。どうして教科の単位を付けていたんでしょうか(この間の詳細は「ボンクラ」の本に書いています)。
 イメージ 1忘れられないのは同学年の一人が糸島の兵舎で落ちていた20センチの機関砲弾に接触し死亡したことです、同時に他に一人が大怪我をしています。授業が完全に行われるようになったのは高校3年になってからのことです、生徒が二年半もの間、授業もなく作業ばかりした学校は戦後とは言え日本中何処にもありません、福岡市の教育行政は誠に杜撰でした。 
 この城内にあった博多工高はその後「舞鶴中学校」になりましたが、この中学も大名で舞鶴小学校と合同の学校となり、この地は現在は大きなバスの駐車場になっています、この地を見る度に当時が懐かしい。
柔道の精神は奥深い
大阪工大に入学した当時は戦後間もない頃でしたので、四階の屋上に上ると鉄骨の骨組みは戦災を受けたままで飴のようでした。早速柔道部に入りましたが放課後、部員皆で土間に直接畳を敷くんです、驚きました、二か月後にはまあまあの高床の道場にはなりました。先輩からはマネージャーを頼まれるし、どの講座の内容も難しいしし、建築工学科なので図面も描かねばなりませんので、一年はあっと言う間に終わりました。当時、柔道初段をとるには無差別で(積算で)五人を抜かねばなりません、そんなに体も大きくない私は難儀でした、やっと四回生で貰えました。
思うに工学部の学生は柔道は無理の様です、夜遅くまで実験,製図、製作などが有るからです。でもこの頑張りが私が後で教員をしながら技術の仕事もこなす精神を育ててくれたのだと思います。柔道は防具なしの生身で(剣道・弓道と違う)戦います、危険も多い、この柔道の志を持つ皆様、最後まで志を貫いて下さい、詳しくは出版本を見て下さい..

 入学当初新入生の部員は二十五、六名いましたが卒業時には4名になっていました。工高時代も戦後GHQで禁止されていた時代でしたが六名同時道場に入門しましたが、一年半後卒業する時は私だけになっていました。
 当時は有段者になるまではとても困難でした、5人勝ち抜いて初段です、それも当時は体重別はなく、すべて無差別での試合です、わたしのような60キロあまりの体重のものは皆な諦めて辞めていきます、私も大学4年でやっと初段になりました。でもこの初段は大学卒業時の福岡県教師採用時にとても助けになりました、やっと柔剣道が解禁された時、柔道で教職の免状を持った者は皆無だったので26倍の採用難に役にたちました、教師の免許を持ち柔道の有段者は皆無でした。。

 工大で柔道の練習したあと特質することがあります、それは練習したあと晴天の夜はいつも淀川堤防を歩いて城北公園の方向の下宿屋に帰っていますと,,当時ほとんど街灯のない”夜空”の美しいこと、これ以来天文学が私の趣味になりました「宇宙は広い、考えさせられる事が多い」。近頃は家庭用のプラネタリュムを手に入れ毎夜楽しんでいます。
イメージ 2
写真提供はOB会現幹事の岡本撤氏による
 

イメージ 3

57年前の私達(歳とりました)博工、甲子園の帰り(春)
島根のなんとか灯台にて。
 
「卒業生の要望により現在と若い頃の写真を載せました、もうすぐ他界するから」