博多工高。大阪工大。お世話になった方。ヨーロッパ。の皆皆様
私が26~28歳当時、福間の大きな精神病院長宅、九大精神科安河内先生(国際政治の問題でノーベル賞を貰えなかった)宅の設計をした当時二人の先生からボケない様にする為には、昔のことを思い出し、自筆で文章にすることが一番(ここで自筆は難儀なのでワープロで)と教わりました、その意味もあって数年前「子供の頃はボンクラでもよか」を出版しました。今これらの過去を簡単に纏めてみました.
子供の頃は何時もボーとしていて、気が弱く、寝小便は何時もするし、学校では勉強はしないし、先生からは何時も虐められていました、でも遊ぶことだけは好きでした。
小学生時代は本当にボンクラでした、4年生まで(5年からは大東亜戦争)は学芸会に出た事もないし、その練習さえ見せて貰えなかった。トイレにも行かせないのでとうとうウンチをしたままで帰宅した事もありました、辛かった(なぜか先生から虐められた)。
第二工業学校(現の博工)に入ると工場への動員中B29で学校焼失、戦後は奈良屋・東光と小学校を転々と仮校舎、その後は糸島の海軍兵舎を解体、平和台横の練兵場後に移転が完成するため、3年ばかりの建設作業(市の予算不足で先生と生徒と数人の大工と)。卒業後は直方ろう学校の工作助教諭、近くの筑豊高校定時制の4年生に聴講生、当校ではじめて本当の勉強をした。
大阪工業大学の建築工学科に一度は失敗しましたが、5日遅れて補欠入学、この学校では素晴らしい先生方に出会い、専門とする構造計算の基礎を確り学びました。当時は朝鮮動乱も終わり、超超就職難の時代でしたが柔道をしていたお陰で県教員採用テストの26倍の難関をパスしました(戦後GHQから柔剣道は禁止されていました、その解禁は講和になってからです、それでも特に柔道をする(柔道は防具なし故希望する学生はあまりいない)学生で教育免許を持つ者は皆無でした)。
福間精神病院長にお願いし、「公務員特例法」での許可を当時の市長から直接貰い建築物の構造計算を多数することができました。私にとってはこの構造計算にはいろんな骨組みがあって、そのものが構造の研究(当時はすべて手計算の時代)の連続でした。
私が29歳当時、九州大学で内地留学した時、市の教育長に提出する為に 生徒の助もあって 福岡市の地盤構造図「日本最初の都市地盤構造図」 を完成し提出することができました、(私のブログを見て下さい、本当に、九大教授はズル賢い者が何人もいる。
小生只今88歳、数年前仕事も完全に辞めました、毎日沢山の薬・サプリメントを服用、夜は何回もトイレ、時々入院もします、近頃よく咳もします(もし新型コロナに掛かったら間違いなくあの世)、眼も悪くなりました。先日恒例のMRIを受診、医者曰く“若干脳が小さくなりました ”頭にきた“ これ以上脳が小さくならないよう工大の2回生でやっと取得した青井先生の微分積分を再度紐も解いています。小生、青井先生にはいろいろと思い出があります。
1回生の時熱学の単位をもらいました(この教室での機械以外の学生は私一人)熱学以外では 光学・地質は他の工学科で取りました、これらはその後、設備・管工事・土木等の資格と、亦教えるとき大変役にはたちました、なにが役にたつかわかりませんね。
こんな事もありました。2回生の2月、4回生で柔道部主将の土木の Mさんが夜中、私の下宿に泊まりにきました、聞くとどうしても微分積分が取れないので試験の前夜事務室に忍びこみ(本当だろうか)問題を盗み、答えを聞きに川原先生(湯川博士の後輩で物理の先生、柔道部長)に答えを習いに行ったそうです。答案を見た青井先生がこの答案はあまりにも出来すぎている、この答案が出来るなら1回生で単位を取っているとかで不認定にされています、Mさんは怒って就職も決まっているし卒業出来なかったら相打ちをすると言っていました。結局川原先生が中に立ち収まった様です。(Mさんは寝屋川市の職員でしたが50代の半ば糖尿病で亡くなりました)。川原先生、青井先生は後、大工大の学長。川原先生は柔道場の名札の最初に最高顧問として名札があります。
- 卒業式の2日まえ柔道部員3人と川原先生の自宅にお礼に行きました、すき焼をご馳走になりました、その時こんな事を話されました。当時アメリかの原爆使用が世界での非難にあがったので、アメリカが日本人に放射能の研究者にノーベル賞をやり、非難を薄めたいので誰かを推薦せよと物理学会に相談があったそうです。そこで勿論第一任者の朝永博士を推薦したところ、彼はやや赤の思想があるので、ダメ と返事がきた故 湯川博士になったと話されていました。朝永先生は2回目のノーベル賞受賞者です。川原先生は湯川さんは 「運」 がよかったと言っていました。
- 私が38歳の時の福岡県OB会に川原先生が福岡市に来られました、この日先生に私宅に泊まって頂きました、この年に ル・コルビゼの設計思想で 「穂高建築研究所」 を設けました。(川原先生は私が2回生の時、理学博士を取られましたが、俺が知らんうちに工学博士が来たと言ってありました)。
- 私の所属する山の会“山荘会”で27歳の時 “穂高岳“ に登はんした時、隊長から山頂の少し前には必ず休憩し、今来た道を顧みながら感謝して山頂に臨みなさいとの教えから穂高建築研究所の名称を付けました。故これを守ったからと思う今までの仕事に大きな失敗はなかった。
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- 私も88歳になりました、これから少し自慢して悪いと思いますが許して下さい。60歳の定年まで、全国の高校の教師の中で一番、専門での研究と仕事(アルバイト)したのは私と思います、小中大の建物で構造計算(当時は全て手計算で)した建造物は600近くになりました、(代表的な建物に長崎造船所、ブリジストンのタイャ倉庫、筑紫野市の農業者体育館)ほか色々あり。構造計算はそれ自体が色んな骨組みありで研究です。(お陰でカーチャンと随分海外で建造物を観ることができました)。
- でも学校が終わり柔道もし、夏冬の休暇以外は、帰宅後殆ど毎日夜の2時までは構造計算でした、また日曜日(80%)は札幌から沖縄までの色んなヶ所での資格指導と専門の講義。「ツカレマシタ」。
- 今はカーチャンから、年金の中から少しの小使いを貰っています、カーチャンに感謝。
- 機会が有りましたら「子供の頃はボンクラでもよか」を周囲の方に薦めて下さい。(悩んである子供さんをお持ちの方に)。 この他の出版本に「先生、もっと子供を叱れ」「家庭の安定には家の設計思想にある」
- 博多工高時代素晴らしい先生に出会いました工高生(小生、S25当校木材工芸科卒)時代の一時期、「小野木先生」(東京芸大卒)が担任でした。B29で博多駅から築港まで広く焼け野原でしたが、呉服町の焼け残ったすぐ横に「松竹映画劇場」がありました、戦後しばらくしてその劇場の「全ての椅子」を先生が設計し直されました。 その後中洲の映画館(名前を忘れた)のインテリアを全て設計。
- 幸い小生当校の教師になりましたが、いつも小野木先生の様になりたいと強い願望をもっていました。技術を持つ先生にお願いします、生徒だけを相手していては勿体ないです、広く世間を見て技術を活用してください 、私のブログ(先生の仕事はもっとある)を参照してください。
- 「また暫くして、中洲に新築なった〇〇劇場(名前を忘れた)のインテリア全てを設計されました。先生でデザイナーの先生を皆が尊敬していると同時に憧れていました、先生はその後東京に行かれました。」
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- ●これ等は私が勝手に書いたものですから、手間のかかるような感想文とか返事とかは一切送らないで下さい。
この頃は暇なのでボケないように昔を思い出し簡単に纏めてみました、私を皆が “アウトロウー“(公務員で何で仕事が)と呼びます。でもチャンと特例法の許可を貰って構造計算や県外での講義を沢山してきました。(許可を貰うのに、若い時良いチャンスがありました。邸宅を設計した精神病院長と、当時の市長があることで親密な関係にあったので院長にお願いし、直接市長から許可を貰うことができました)。
- カーチャンが2年程前滑って腕を骨折しました、一年で完治しましたが慣例で2年ばかり食事を作っています、食事の後かたずけは7年になります。山では何時も料理を作っていましたが、家庭での食事は難しいです、でも面白いです。
- 新型コロナに感染しないようにしましょう、高齢になりますと死亡率が高いのでお互い注意して行きましょう、小生88になり何時死んでもよいと思っていますが、出来ればもう少し生きようかとも思っています。
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ル.コルビゼェの設計思想で38歳の時 この本の主旨は42ページのグラフで す。この他に「先生、もっと子供を叱れ」、「家庭の不和は家の設計思想にある」がある。
- ●ハテナブログ「北島進 穂高建築研究所」の九州大学の土木・建築の教授はズル賢い者が多い」 をクリックして下さい、面白いです。
せきべのうた昔の教育の一部
脳科学者、心理学者の言によれば、若い頃を思い出し自筆で文章にするとことがボケ防止に最良だそうです、自筆は難儀なのでワープロにしました。
小学1~4年までは女の担任でこの先生から何時も怒られた、私は病弱で体も小さくボンクラでしたから先生から怒られるのも当然でしょう、どの様にボンクラだったかを1,2挙げます、今の教育では考えられない。
1 私は学芸会に出たことも皆の練習を見たこともありません、練習の時は先生から差別されている者5人(頭に一杯出来物のあるY君・貧乏で洋服のちんちくりんのT君・何時も水鼻を出していて袖で拭いて光っているA君・体の大きく強い韓国人のk君・何となくボーとしている私)は何時も運動場で遊んでいました、寧ろ楽しくそれが苦になることはなかったけど、雨の日だけは何処にも行きようがないので困った、運動場端にあった倉庫の小さな庇に皆でたたずんでいました、足はビショビショです。
家に帰ると食事の時、親父が今年は出してもらえるかと尋ねます、出ないと答えると“勉強もせん、先生の言うことも聴かない、そんな生徒を好くわけがない”明日先生に「教科書の1ページでも読ましてください」とたのめ。
お袋は近くのB君は何時も学芸会に出してもらっているとか、C君は今年は主役で出るとか言います、ご飯の味なんかありません、泣き泣きいつも食事をしていました。
兄弟も姉3人もみんな優秀で、2年下の弟は毎年級長か副級長で、この年は白虎隊の隊長として出演し最後に自決するそうです。この日母は楽しく朝早くから着物を着こなし、鏡の前で立ったり座ったりしていました。親に苦労をかけたこの嫌な学芸会も戦争のため5年から中止になりました、よかった。
2 私の出来るのは工作だけでした、模型飛行機はクラスで一番上手で6年生の時は私の4発で翼の長さ35センチぐらいの飛行艇が工作室のガラス戸棚に最後まで飾ってありました。親父はよく進は勉強は出来んけど将来大工にはなれると呟いていました、でも大工は頭が要るけんね。
毎朝目が覚めると、布団を見て寝小便してなかったらホットしていました、夏は寝苦しいからゴザで寝ていましたからその心配はありません(精神科の先生によると寝小便をする子は将来用心深く、成長しても無理な事はしないそうです、だからでしょう高校生になって米軍から柔道剣道が禁止されていましたが、道場で・空手柔道をする気になったのかもしれません。)
寝小便をしたり、ノロマ故モタモタするとよくお袋が「バカ」とおごります、親父はその時「バカ」と言ったらいかんと注意していました、「バカ」と言ったら本当にバカになると注意していました、進は病気だから怒ったらいかん。
恥ずかしい事ですが3年生の冬、授業時間に便所に行きたくなりました、病弱故時々熱がでて下痢するんです、先生にお願いするとやかましく「我慢しなさい」と怒られました、宿題をしなかったからと思います、とうとう我慢が出来ず“ウンチ“をしてしまいまし た、そのまま帰れといわれ寒い風に煽られ田圃の2キロ程の道を歩いて泣き泣きかえりました、家に着くとお袋が井戸水で洗ってくれましたがその冷たいこと今でも忘れられません。
3 小学1年の初め頃、軍艦・飛行機・学校等の絵があります、その下にカタカナで書く問題が出ましたので私が漢字で軍艦・飛行機・学校等と書きましたら、先生が頭をパチンと叩き“そんな字で書かんでよか”。それも原因かもしれません勉強がとても嫌いになりました、小さい時兄や姉がよく漢字を教えてくれていました。私の小学校は生徒が多く(クラスの生徒50名*6クラス*6年生まで=1800名)この全生徒の前で泣きました。書道の時間、墨をすっていました、ヒョット後ろを見たら韓国人のk君が墨のついた筆で顔に塗りました、私も反作用でk君に塗りましたその繰り返しで2人とも顔が真っ黒くなりました、先生が怒って2人とも運動場に面した講堂横に4時間ほど立たされた、休みの時間は毎回2000人近くの生徒が移り替わり泣いている私達を見に来ます。この中で今でも記憶するものがあります、大きな女の子が私に指をさし”この人涙を一杯出し顔を拭いてるとよ“。
或る日農業の時間、直径2センチの赤・黄・青・緑など沢山の花が咲く盆栽がありますあまり奇麗なので“栄養をやろう”と言って皆の前で小便をかけました(当時の肥料は人か動物の糞です)。それを見ていた可愛いい女の木下さんが先生に言ったそうです。教室に入るなり先生から頬を思い切り叩かれました。
4年までの当時勉強した覚えがない、親父もお袋も佐賀弁で“勉強せんば”と何時も喧しく言いますけど何時もするのは小刀で何か作っていました、グライダーを作るときは竹ヒゴを買わないで竹を細く割り丸く削って作りました。当然子供部屋もなし、机も食卓が終わった机だけでしたから、でも姉弟はその机で懸命にしていました。
4 4年まで男女同じ教室でした、ある日隣の渡辺さんの漢字宿題帳を見てビックリです、一字一字違う漢字が一杯で赤丸が何十にもあります、私のは三角一ッだけです、当然です先生からまた竹の棒で叩かれてはと朝教室に入るや鉛筆をなめなめ2角から5角の一列同じ漢字を書くんですそれも毎週です、本当にボンクラでした。
1年から4年まであまり怒られたので私の頭の中は記憶が一杯です、5年生の担任は何時
も面白いことを言っていましたので記憶なし。勉強が面白くなったのは、6年生の担任が剣道2段の先生で、私も早朝剣道の練習に参加する様になってからです、このころから初めて友達に教えるくらい算数が理解できる様になりました、教室でも国語の時間、ある日誰か讀む者はいないかと問われるので私が初めて手を挙げまし、先生がビックリした顔で“読め”といわれました。
4年の終業式の時、講堂で校長と4年の担任の先生が教壇に立ってあります、結婚され中国の青島に行かれるそうです、結婚の意味は分かりませんが先生が居なくなることだけは理解できました。教室に来られると女の子は皆泣きます男も半分は泣いています、先生は素晴らしい先生だったようです、私は明日から怒られないのでホットし下ばかり向いていました。
卒業少し前担任の先生が何処の学校に進学するかと尋ねられたので、木材で飛行機をつくる市立の第二工業学校(現、博多工高のデザイン科)の木材工業科(校長は来年から木材航空機科になりますと言っていたが終戦に、この頃は学校は空襲で焼け、学徒動員などで毎日が工場だった)にお願いしみごと合格しました、嬉しかった(入学の時、飛行機の構造図面のはいった幾つもの教科書は特に毎日見ていた)。
家業は小さな甘酒屋(博多甘酒)でしたが、戦前~戦後の食料難の時代、作れば作るほど売れていました、だから忙しかった、手伝いも一杯しました、親父も子供のことで勉強を見る暇も無かったのが当然です。
この女の担任の先生、戦後一度飛行場近くで間違いなく見ました、戦後の混乱の中、よく無事で帰ってこられました、あの先生から差別され虐められたので私は人様を軽蔑したり、差別したことはありません、寧ろこの女の先生で良かったと思っています。
6年の担任の男子の先生は戦後学校の給料が余りにも低かったので炭鉱に転職されたそうです、炭鉱に行き坑道で働くと給料も良いし、一日確実に5合の米の配給があります(全国から若い者が集まった)、その転職が少し体を壊し26歳ぐらいで亡くなられたと聞いています、残念。
“美人は怖い。ズル賢イ 九大教授(実名前入り)。学校建設で勉強のなかった2年半。
工高の先生は専門でのアルバイトが可能(許可は必要)。
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アラカルト、
●工高の同級生立和田実君と大村文男さん(山荘会創設者の一人)が由布岳での偶然の出会いから永瀬隆博さん(従来の山の友)と三人で山荘会に入会しました。私が27歳の頃山荘会に入会して山荘会最初の遠出が日本北アルプスで10名程の参加者でした、隊長は美濃井芳夫(写真の最上)さんです、当時は交通がままならずアルプスの麓に行くまでが大変でした。隊長以外は皆な初めての遠出ですから麓から興味津々で、これが梓川とか、これが河童橋とか美濃井さんの説明に胸が震えたのを覚えています。
たしか穂高岳山頂までの途中のコルで一夜ビバークしました、
いよいよ山頂に近づいた頃です、あと7~8分も登れば山頂という少し平らな処で隊長から小休止の合図がありました、あと少しの処で何故と疑問を感じました、隊長の説明では “山頂の手前では必ず休みなさい、一気に登ってはダメです、これまで随分苦労して此処まできました、これまでの苦労を顧みながら気持ちを落ちつけ、山頂には感謝して山頂に登らなければいけません”、これは我々の人生と同じです との説明でした、なんと素晴らしい指導でしょう、凄い。山頂は眺望も良く、澄み切った空気でした、帰りはたしか穂高の麓あたりから
このグループの中、新貝勲さん(法務教官で写真の最左)は特に山で活躍された方で日本山岳会
において “”1982、K2を登山隊長として登高に成功され、国内でとても有名になられ映画にもなっています、著書も「氷河の暖風」”“ あり。(博多工高でも公演あり)
「K2はとても険しい山だそうです、エベレストは現在まで何千人も登高されたが、K2の登高者は数十人と聞いています」
工高の教師は「特例法」で専門の内容でしたら県知事又は市長の許可を貰って別に仕事が出来ます、30歳の初め頃 “構造計算”での許可を貰って城南区梅林に「穂高建築研究所」を開設しました。この穂高の名称は穂高岳での隊長さんの素晴らしい指導を受けた場所から来ています。お陰でこの研究所では随分仕事も勉強もできました。 一つの仕事の終わり頃は何時も美濃井さんのあの指導を思いだし再度考える事にしました、お陰で失敗は殆どありませんでした。
「60歳まで、手による構造計算した。記憶にのこるものに、
・1・30の始頃、長崎造船所(下中上段の30t。10t、5t走行クレーンを持つ)
・2・30の中頃 九州高速自動車道からよく見える“羽犬塚近くのブリジストンの山形7連棟のタイャの倉庫(40頃)。や、
・3・50の中頃 筑紫野市諸田の農業者スポーツセンターの西日本初の立体トラスを使った体育館があります。
・4・外に福岡市地盤構造図(20代の終り頃)がある”これは日本最初の都市地盤構造図です“。
●またお陰で年間の土日の半分以上は札幌から那覇まで構造関係の講義をすることが出来ました(84歳まで)。」
・・今、山荘会はありませんが、この写真の方々は今どうしているでしょう、宜しく伝えて下さい。
(美濃井さん、新貝さん、は逝く、)・・
●柔道の指導も大切ですが、部活動には山岳部をつくり顧問を兼任することにしました。34歳の頃でした、生徒8名ほどで久住山頂の真ん中でのことです、元々天候は悪かったが突然猛吹雪に遭いました、風が収まるまで岩陰に隠れ蹲りましたがなかなか強風が納まりません、生徒の一人が寒暖計を見て “マイナス32度です” と呟きました、今までこんな寒気に出会ったことがない私は驚きました、重装備でもない我々です、困った、これから早く脱出しなければと考えていた時、幸いに風の息が少し納まりました、急いで下山したのが幸いし“坊ヶつるのテント”まで辿り着きました、あのときウカウカしていたら全員遭難していたかもしれません、今考えても身震いがします、以後無理な登山は。
●(小生、只今毎日沢山の薬とサプリメントを飲んでいます、よく生きている、もうすぐ死ぬでしょう。 2018・11・吉日 北島進
先生方の活躍の場はもっとある
●先生方の活躍の場はもっとあります...
これらの仕事は全ての教師としてとても役にたちます。今はコンピュターの時代ですから私達の時代と違いどんな内容でも的確に短時間でスピーディーに色んな仕事が処理出来ると思います。あまり周囲に気を使わず心配なくまた躊躇なくやって下さい、ただし管理職になろうとか、眼先の学校内での出世なんか考えてはダメです、飽くまでも技術者・専門家としての成功を目指さなければなりません。人生は長い、退職後も結構時間があります、私の知った元管理職者・校長で退職後定職のある方を一人も知りません。若い内から専門家・技術者としての生きる決意を持って下さい、何よりも生徒の為にも貴方の為にもなります。