アラカルト、
●工高の同級生立和田実君と大村文男さん(山荘会創設者の一人)が由布岳での偶然の出会いから永瀬隆博さん(従来の山の友)と三人で山荘会に入会しました。私が27歳の頃山荘会に入会して山荘会最初の遠出が日本北アルプスで10名程の参加者でした、隊長は美濃井芳夫(写真の最上)さんです、当時は交通がままならずアルプスの麓に行くまでが大変でした。隊長以外は皆な初めての遠出ですから麓から興味津々で、これが梓川とか、これが河童橋とか美濃井さんの説明に胸が震えたのを覚えています。
たしか穂高岳山頂までの途中のコルで一夜ビバークしました、

いよいよ山頂に近づいた頃です、あと7~8分も登れば山頂という少し平らな処で隊長から小休止の合図がありました、あと少しの処で何故と疑問を感じました、隊長の説明では “山頂の手前では必ず休みなさい、一気に登ってはダメです、これまで随分苦労して此処まできました、これまでの苦労を顧みながら気持ちを落ちつけ、山頂には感謝して山頂に登らなければいけません”、これは我々の人生と同じです との説明でした、なんと素晴らしい指導でしょう、凄い。山頂は眺望も良く、澄み切った空気でした、帰りはたしか穂高の麓あたりから

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松本城までを長い区間タクシーでした。

このグループの中、新貝勲さん(法務教官で写真の最左)は特に山で活躍された方で日本山岳会
において “”1982、K2を登山隊長として登高に成功され、国内でとても有名になられ映画にもなっています、著書も「氷河の暖風」”“ あり。(博多工高でも公演あり)
「K2はとても険しい山だそうです、エベレストは現在まで何千人も登高されたが、K2の登高者は数十人と聞いています」

工高の教師は「特例法」で専門の内容でしたら県知事又は市長の許可を貰って別に仕事が出来ます、30歳の初め頃 “構造計算”での許可を貰って城南区梅林に「穂高建築研究所」を開設しました。この穂高の名称は穂高岳での隊長さんの素晴らしい指導を受けた場所から来ています。お陰でこの研究所では随分仕事も勉強もできました。 一つの仕事の終わり頃は何時も美濃井さんのあの指導を思いだし再度考える事にしました、お陰で失敗は殆どありませんでした。

「60歳まで、手による構造計算した。記憶にのこるものに、
130の始頃、長崎造船所(下中上段の30t。10t、5t走行クレーンを持つ)
2・30の中頃 九州高速自動車道からよく見える“羽犬塚近くのブリジストンの山形7連棟のタイャの倉庫(40頃)。や、
3・50の中頃 筑紫野市諸田の農業者スポーツセンターの西日本初の立体トラスを使った体育館があります。
4外に福岡市地盤構造図(20代の終り頃)がある”これは日本最初の都市地盤構造図です

 ●またお陰で年間の土日の半分以上は札幌から那覇まで構造関係の講義をすることが出来ました(84歳まで)。」


・・今、山荘会はありませんが、この写真の方々は今どうしているでしょう、宜しく伝えて下さい。
(美濃井さん、新貝さん、は逝く、)・・

 


●柔道の指導も大切ですが、部活動には山岳部をつくり顧問を兼任することにしました。34歳の頃でした、生徒8名ほどで久住山頂の真ん中でのことです、元々天候は悪かったが突然猛吹雪に遭いました、風が収まるまで岩陰に隠れ蹲りましたがなかなか強風が納まりません、生徒の一人が寒暖計を見て “マイナス32度です” と呟きました、今までこんな寒気に出会ったことがない私は驚きました、重装備でもない我々です、困った、これから早く脱出しなければと考えていた時、幸いに風の息が少し納まりました、急いで下山したのが幸いし“坊ヶつるのテント”まで辿り着きました、あのときウカウカしていたら全員遭難していたかもしれません、今考えても身震いがします、以後無理な登山は。
●(小生、只今毎日沢山の薬とサプリメントを飲んでいます、よく生きている、もうすぐ死ぬでしょう。                   2018・11・吉日 北島進