戦前、戦中、戦後はこんj時代でした。

 
 
マッカーサーを呼んで来い
 私の家は博多駅近くの機関庫裏でした、機関庫には常時蒸気機関車や客車を修理のため数十台連結してあり、家近くの機関庫には一辺20メ-トル深さ3メートルの四角ですり鉢状の全面石張りの池があります、この水は中水で列車や修理に使用する大切な水です。
 一方私の町内は吹き溜まりに近い町ですが立派な勇ましい青年が居ました、戦時中は学徒動員で南方方面の特攻隊の生き残りです、中央大学出身で英語が堪能で、当時珍しく県庁と福岡警察で嘱託の通訳をしていると聞いています、もの静かな方で背中には達筆で「南妙法蓮華経」と彫ってあります。奥さんは超美人で当時女優の高峰三枝子さんの様でした、町内の皆が憧れと畏敬の念を持っています、道端で逢うと誰もが頭を下げていました。
 この四角池は私達青少年にとっては格好のプ-ルで遊びのない当時暇さえあれば泳いでいました、でも時々駅員数名が来て大きな声で”出てゆけ”と怒鳴ります、その度に逃げていました。
 ある日逃げていた時、丁度通りかかっていたこの若者が”この時代です遊ばしたください”嘆願していますがなかなか聞いてくれません、この駅裏の町民は何十もの機関車から出る煤でどれだけ困っているか考えて下さいとも嘆願していました。痺れが来たのか駅員の一人が”これはマッカーサーの命令だ”と言った時この青年頭に来たのでしょう、度胸のある声でマッカーサーを呼んで来い」「マッカーサーと話し合おう」言っています、3人ばかりいた駅員は静かに帰って行きました、この喧嘩超超面白かった。(現今、蒸気機関車はレトロブームで大変人気がありますが私は見たくもありません、子供の頃の家の裏は大きな機関庫で、これから出る機関車の煤混りの煙を思い出し例えブームとはいえ見たくもない。)
 これに限らず当時の公務員は皆んな市民、国民とトラブルがあるとマッカーサーの名を出していました。今でも公務員は「許認可権」を持っているから市民の声をあまり聞こうとしません、威張っています。10年程前私の専門とする耐震偽装問題がありました、皆偽装した建築士に責任を擦りつけていますが本当は担当公務員の威張ることしか知らない勉強不足からきているんです。(公務員は生活が安定しているので当時は一般に勉強しない、故に偽装を見抜けなかった)、

●小学生時代学芸会には出た事もないし、練習を見たこともない
 私は小さい時から病気がちで胃腸は弱く寝小便ばかりでした、背もクラスでビリから二番目でした、当然成績は悪く所謂超ボンクラでした、家ではおふくろからも学校の先生からも”バカ”と言われていました、親父はおふくろにバカとだけは言ってはだめ、本当にバカになると注意していました。毎年秋頃になると夕食時親父が”今年は学芸会に出るのか”と聞きます。”出ない”と答えると”勉強もせん、宿題もせん、先生の言うことも守らん、そんな生徒を先生が好きになる分けがない”と叱ります、明日学校に行ったら”教科書の一ページでも読ましてくださいと頼め”と言います。お袋はどこそこのA君は毎年出して貰ってる、とかB君は今年は主役で出なさる、とか言いますので、悲しくなって何時も泣きながら味もしないご飯を食べていました。姉も兄も成績は良いのに私のボンクラには情けなかったのでしょう。   二つ違いの弟はこの年は白虎隊の隊長として出演します、隊員皆が相討ちした後短剣で喉を突いて自決するそうです。学芸会の朝のお袋は早朝から綺麗な着物を着て、鏡の前で立ったり座ったり嬉しそうでした。
 学芸会に出られない事は仕方のないことですが、皆が練習中も出ないクラスの何時もの生徒5人は誰もいない運動場で相撲やドッチボール等をしていました、誰もいない運動場で遊ぶのは楽しかった。小5年になると大東亜戦争も始まり学芸会が無くなりました。
 参考まで(精神科の先生によれば、寝小便する子供は、"また明日小便したらと
何時も心配するので、大人になっても将来の事を考え無理な事をしないそうです、貯蓄はしても賭けごととかはしないと言っていました"そういえば私は賭け事は一切しない
 私は子供の頃親を喜ばすことがありませんでしたが、一つだけ私も褒められたことがあります、親父が”進は勉強は出来んけど工作が好きやけん大工で飯が食える”と言ってお袋を慰めていました、でも大工は頭が居るけんね。模型飛行機や潜水艦なんかを作り出したらナイフ一つで一日中でも休むことなく作っていました、楽しかった。6年の時作った飛行艇は何時までもガラスの飾棚に飾ってありました、飛行機大会の時は私の飛行機が一番飛びました。だから工業学校は自ら希望して木材工業(航空)科に入りました、当時は金属が不足し木製の航空機が盛んに研究された時代です。でも戦況が厳しくなり勤労奉仕や学徒動員、戦後はB29で学校が焼けた跡、先生と生徒のみでの学校建設等で勉強のあまり無い工高時代も終わったようです。

●「ウンコ」してそのまま学校を帰らされた、辛かった。
 小3年生の冬でした、胃腸の弱い私は病気の度に飲みにくい「ヒマシュウ油」を飲まされていました、午前中でした,腹が愚図るので先生に便所に行かせて下さいとお願いしたら、宿題をしてなかったかからと思う先生が怒り”我慢しなさい”と言われました、がとうとう"しかぶり"ました。先生がそのまま帰れと言われ、田圃の中を北風に煽られながら泣きながら2キロの道を帰りました、この辛かった事昨日のようです。帰るとお袋が冷たい井戸水でお尻を洗ってくれました、またその冷たいこと。
 4年の終業式で校長先生と女の担任の先生が壇上に立っています、話を聞いていると結婚して中国にある青島市にお嫁に行くとかでした、クラスに帰ると半数の女の生徒が皆な泣いています、男の何人かも泣いています。あの怖い先生が居なくなるのを知った私は嬉しくなるばかりでしたが下を向いてじっとしていました。
 あの先生は無事で帰国されたでしょうか、あの先生のお陰で人様を軽蔑したり侮辱しない精神を育ててくれました中国・韓国(特に若い女性)からの帰国者は言葉にされないぐらい苦労されました。

●ピーナツをやらないで予科錬帰りの先輩から殴られた
 戦後学校は焼けだされたので港近くの奈良屋小学校での仮校舎で暫く授業がありました、この校舎鉄筋の校舎だったので焼けのこったのす。周囲は広く焼け野原でした。超食糧難の時代、進駐軍の接たいしていた料理屋の友人と5人程での学校帰り道、料理屋の友人一人でピーナツをむしゃむしゃ食べています、たまりかねて喧嘩の強い一人の友が”俺にもやれ”と言いましたが”いや”と言いそのまま皆で博多駅まで歩いて帰りました。(ピーナツを見たこともない時代です、"いや"とかあんなことが良く言えるものです,優越感を味わっていたのでしょう,彼は日本将校関係の料理屋なので戦時中から皆が欲しがる御菓子なんかを皆の前でよく食べていまた)。
 翌日鼻血を一杯出し、少し泣きながら運動場隅の足洗い場で顔や血の着いた服を洗っています、クラスの者に聞くと「廊下でピーナツを食べている時、予科錬帰りの先輩から、要求され断ったのが原因で数人からメチャメチャに殴られたそうです」皆な罰あ当たったと喜んでいました、彼は40歳前、市内の丘の上に立派な自宅を建てましたが、何故だかそれから間もなく逝ってしまいました、贅沢しすぎて活性酸素が多くなったのかも。

●私の「研究」を自分の研究にして日本建築学会で発表した九大教授。
 教師をしながら九大(名を借りるだけ、建築工学科,佐治教授、コンクリート工学で内地留学していた29のとき、「福岡市地盤構造図」を福岡市教育長に提出するため、生徒から手伝ってもらい完成したことがありました。毎年出版されている「福岡県工業高校教育研究会誌3号」に掲載いたしました。その一年後九大のコンクリート専門の佐治教授から”日本建築学会”で発表しようと相談があったので喜んで資料を渡しました(地盤図ですからこの資料を集めるのが大変でした、当時はまだ井戸やさんも地盤調査していた時代ですから一つ一つの資料にとても価値があります)。
 出来たのを見てビックリです、編集者は九大土木工学の教授5,6名、建築工学の教授5,6名、県庁の役人で局長とか部長とか課長7,8名程、他数名そして私は高校教諭でしがないからでしょう名前が最後にありました、驚きました。大学教授の学者なんかよってたかって学生の研究の分まで取って自分の名を売ろうとするんですね。(当時珍しく一冊4000で発表会のとき販売してありました、誰が収入を得たのでしょう)。
  後に資料を渡した教授の名で日本建築学会で発表
                       世の中ってこんなものです
 都市の地盤図はその後、熊本市北九州市と続き今では全国都市に地盤図が出来ています(当時はまだ大阪にも東京にもありませんでした)。
福岡県工高研究会誌(研究と報告)に載せた福岡市地盤図の概要を下記に示す

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●福岡市大濠公園中之島には日本の若い女性以外は立ち入り禁止
 戦争に負けることは悲惨です、また沖縄基地で日本女性が悲惨な目に遭いました、沖縄は防衛上の地理的に防衛上の要でその優位性の大切さは分かるが如何したら悲惨な事件の解決ができましょうか。
 福岡市の真ん中に周囲2キロの濠があり、この一帯は福岡城の跡地で市民にとっても観光にとっても最高の場所です、当時隣に私の工業高校がありました。
 この大濠公園の真ん中にあるパール状の中之島は、戦後朝鮮動乱の終わる数年の間、若い日本女性以外は立ち入り禁止でした、この横に米軍から接収された軍の病院がありました。
       
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 当時は超食糧難の時代、日本女性も生活のため、身を削っていたんですね、ボートに乗ってこの中の島に近ずくと皆楽しそうでした、米軍はよくピストルで日本人が乗っていたボートをよくピストルで撃っていた、幸い私は撃たれなかった。
 戦後数年の後こんな出来事がありました、当時ドブ川の中州の博多川に日本の女性を数人、酔っぱらった米軍兵士が投げこんだ事件がありました、悲しい。
 戦後、進駐軍の基地が博多湾の向こうの西戸崎にありました、酔った米兵が日本女性をジープに乗せ基地につれて行く途中、道路に女を投げ落しジープで前進バックを数回繰り返し挽き殺した事件もありました、少年の頃でしたがこの話を聞いた時やりきれなかった、悲しい。

●6月19日は福岡大空襲です
 夜中の11時頃、空襲警報で眼をさましたら既にB29が頭上です、寝苦しかったのでしょう裸のまま防空壕に入りましたのでお袋から喧しくしかられました、動員中でしたが工場には行かず、指図どうり学校に行きましたがすっかり全焼、B29は全機205機だったそうです、市内で約1500人以上が焼死しています。空襲時間は約30分で終わりました。何故だか校内の焼け野原の真ん中(朝の10時頃)に香りの良い「ラクダの絵の入ったアメリカの煙草が落ちていました」直ぐ交番に届けました。
 焼け後にはアッチコッチと女や子供が泣け叫んでいます、死体も沢山見ました。救助班の方が罹災者に乾パンを配ってありました、それを見ていた私達は”焼け出された者は良いな、乾パンが食べられて”口ぐちに話していました、
戦中・戦後は超超食糧難の時代でした、よくこんな状態で戦争をしたもんです。
大国アメリカと戦争した日本軍の参謀はなんて馬鹿か
参謀は技術を知らなすぎた。