エピソード

素晴しかった筑穂高校の定時制高校
 私がS25年博多工高を卒業し、北九州炭鉱地方の直方ろう学校の助教諭として勤務し”筑豊高校の定時制高校”の4年生に無理にお願いし聴講生として通学していた時のことです。
 このクラスは定時制が出来たS22年の最初の生徒で、当時は大変な超食糧難の時代です、生徒の多くは戦時中南方や中国の戦場で戦い、戦後引き揚げたが方たちばかりです。当時炭鉱の坑道で働くと公務員(当時の公務員の給料はとても低く、若い方の一月の給料で闇米1~2升しか買えない時代です)としての待遇と、米5合の配給が確実にありましたので、この復員者の若い方達の多くがこの炭鉱(当時日本のエネルギーは全て石炭に依存していたので、昭和天皇陛下も坑道まで入られ視察された事もある)に来ていました。中でも今まで戦場のため勉強の出来なかった志のある方が多く、クラスは向学心の凄い熱気がありました。生徒の数は80名程で、机は教室一杯です、だから私は何時も早く出席していました。教室に先生が一旦入るとこの一杯の教室はシーンとなります、それが授業のおわるまで続きます、後の大学でも教師をした高校でもこんな経験はありません。教師をしていた時、福岡市で中高大学の連絡会があった時、九大の先生が近頃の学生は講義中話をするとボヤイテいました、すると中学の先生が今の生徒は我慢するのは15分です、それはテレビでのコマーシャルの間隔は15分だからと説明してありました。この授業中の教室の静けさは4年間続いたんです、凄い。
 漢文の講義の時でした、15分後24,5才ぐらいの生徒が少し酔って教室に入って来ました、今日はお祝いがあってどうしても帰られなく遅刻しました、すみませんと詫びています。戦時中はどんな場合でも一分、一秒でも遅れれば殴られるのが当たり前でしたから、先生が貴様とか言って1,2回は殴るだろうと見ていましたら、先生いわく”酒を飲んだ後でもよく頑張って来ました、後の時間も頑張って下さい”と言われた時は感動しました、今当時のことを思い出しすと感動で胸が震えます。この思い、あとで高校教師になった後でも、生徒を怠け以外での遅刻を理由で叱ったことはありません遅刻にも色々理由があるんですね。この学校で聴講生として一年間でしたが人生の全ての生き方を学びました。
美人は怖い(特に筑豊の女性は怖い)
 工高卒業後筑豊のろう学校で工作の助教諭をしました夜はちかくの定時制高校で猛勉強中です、(工高時代は福岡市の予算不足で学校建設の作業ばかり)。
  助教諭当時の月給は3900円、将来は大学にと少しずつ貯金をしていました、何時もは寮生と食事しますが贅沢は一切なし、夏冬休暇中の食事はいつも切り詰めていました、大学進学の為貯蓄に専念、夜は使用しない教室で寝泊まりしていました。秋頃から1つ違いの美人の先生からしきりにいろんな相談がありましす”A先生が私に惚れて困っています””A先生が付き合いたいと言われるので断った”とか”先生のような真面目な方が好き”とか。
 正月過ぎでした、やっと大学の受験でも可能な幾らかの貯金が出来た頃でした、この美女から「ミシンを買うので1万円貸して」と相談がありました、これには困った、嫌とも言えないしでも貸しました。私にとって当時この1万円の価値は計り知れません。お礼に炊事場用の下駄をもらいました。
 その後私は辛うじて大阪の大学へ、数年後彼女は結婚して住所もわかりません、美人は怖いです。50の半ば学校に逢いたいと電話、借金でも返してもらえるのかと遭いましたが、彼女の家の事ばかり、困ってあるようで返還の話は一切なし、苦労しているようでした。私は今まで色んな方に相談の度に、金を随分かしましたが返ったためしなし、金は貸すべきでない。
 当時の直方市炭鉱都市として人口も多く、市街地の古町・殿町の商店街は昼夜人通りが多くお祭りの様でした、今は何時もガラ―ンとしています、参考まで。
戦後、先生と生徒で建設した博多工高の校舎
●S19福岡市立の博多工業学校の木材工業科(航空)入学(当時は小学校から進学)して半年はj授業があったでしょうか、B29の空襲も始まりあとは勤労奉仕ばかりで、二年になると学徒動員で鉄の鍛錬工場で一生懸命働きました。その間爆撃で学校(今の舞鶴小)は焼け戦後は仮校舎(今の奈良屋小)が一年、(東光小が一年、)その後は城内の地(今の平和台陸上競技場横の、元福岡連隊の後)で学校建設が始まりました。
 当時のわが校は新設、間もない学校(S16紀元2600の記念として福岡市が創設)で、戦後の混乱期(戦後は多くの生徒が学校を退学した)でもあり、総勢350人程の学校でしたが、福岡市の予算不足のため、先生・生徒・大工5人程で学校校舎の建設をやらねばなりません。
 内容は生徒の半数が糸島にあった元小富士航空隊の兵舎を解体し、その資材を肩に担いで5キロばかりの道のりを糸島駅まで運び貨車に積み込みます。国鉄鳥飼駅では後の半数で材料を積み下ろし、6キロ先の城内まで肩に担いで運搬します、運んだ資材からの釘抜きも大変でした。材料を整えた後、全員で基礎造りから大工交じりの全員で校舎建設です、教室が出来るまでの二年半は全く授業がありませんでした。どうして教科の単位を付けていたんでしょうか(この間の詳細は「ボンクラ」の本に書いています)。
 イメージ 1忘れられないのは同学年の一人が糸島の兵舎で落ちていた20センチの機関砲弾に接触し死亡したことです、同時に他に一人が大怪我をしています。授業が完全に行われるようになったのは高校3年になってからのことです、生徒が二年半もの間、授業もなく作業ばかりした学校は戦後とは言え日本中何処にもありません、福岡市の教育行政は誠に杜撰でした。 
 この城内にあった博多工高はその後「舞鶴中学校」になりましたが、この中学も大名で舞鶴小学校と合同の学校となり、この地は現在は大きなバスの駐車場になっています、この地を見る度に当時が懐かしい。
柔道の精神は奥深い
大阪工大に入学した当時は戦後間もない頃でしたので、四階の屋上に上ると鉄骨の骨組みは戦災を受けたままで飴のようでした。早速柔道部に入りましたが放課後、部員皆で土間に直接畳を敷くんです、驚きました、二か月後にはまあまあの高床の道場にはなりました。先輩からはマネージャーを頼まれるし、どの講座の内容も難しいしし、建築工学科なので図面も描かねばなりませんので、一年はあっと言う間に終わりました。当時、柔道初段をとるには無差別で(積算で)五人を抜かねばなりません、そんなに体も大きくない私は難儀でした、やっと四回生で貰えました。
思うに工学部の学生は柔道は無理の様です、夜遅くまで実験,製図、製作などが有るからです。でもこの頑張りが私が後で教員をしながら技術の仕事もこなす精神を育ててくれたのだと思います。柔道は防具なしの生身で(剣道・弓道と違う)戦います、危険も多い、この柔道の志を持つ皆様、最後まで志を貫いて下さい、詳しくは出版本を見て下さい..

 入学当初新入生の部員は二十五、六名いましたが卒業時には4名になっていました。工高時代も戦後GHQで禁止されていた時代でしたが六名同時道場に入門しましたが、一年半後卒業する時は私だけになっていました。
 当時は有段者になるまではとても困難でした、5人勝ち抜いて初段です、それも当時は体重別はなく、すべて無差別での試合です、わたしのような60キロあまりの体重のものは皆な諦めて辞めていきます、私も大学4年でやっと初段になりました。でもこの初段は大学卒業時の福岡県教師採用時にとても助けになりました、やっと柔剣道が解禁された時、柔道で教職の免状を持った者は皆無だったので26倍の採用難に役にたちました、教師の免許を持ち柔道の有段者は皆無でした。。

 工大で柔道の練習したあと特質することがあります、それは練習したあと晴天の夜はいつも淀川堤防を歩いて城北公園の方向の下宿屋に帰っていますと,,当時ほとんど街灯のない”夜空”の美しいこと、これ以来天文学が私の趣味になりました「宇宙は広い、考えさせられる事が多い」。近頃は家庭用のプラネタリュムを手に入れ毎夜楽しんでいます。
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写真提供はOB会現幹事の岡本撤氏による
 

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57年前の私達(歳とりました)博工、甲子園の帰り(春)
島根のなんとか灯台にて。
 
「卒業生の要望により現在と若い頃の写真を載せました、もうすぐ他界するから」